田んぼの中の岩木城跡探訪。
岩木城跡の特徴
飛騨の塩屋秋貞関連の歴史的な城跡である。
田んぼの中に位置しアクセスが独特である。
車では行けない珍しい立地条件を持つ。
飛騨の塩屋秋貞が城生城を攻めた時の付城。その後、佐々成政も使用したという。現在は、墓地にわずかに土塁の一部が遺っているだけ。
墓地の参拝用の駐車スペースがあります。
田んぼの中を行くので車では行けません。
| 名前 |
岩木城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
070-8938-3017 |
| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| 評価 |
2.8 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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岩木城跡(いわきじょうあと・岩木砦)は富山県富山市稲代にある中世の小規模な城跡で、神通川東岸の段丘上に築かれた。築城は塩屋秋貞によると伝えられ、対岸の城生城との攻防に使われた。現在は墓地に覆われ土塁がわずかに残るのみだが、戦国期の緊張を物語る遺跡である。戦国時代、飛騨から越中へ進出した塩屋秋貞は元亀2年(1571)、城生城攻略のため神通川を挟んで向かいの段丘上に砦を築いた。これが岩木城、あるいは岩木砦と呼ばれる遺構である。川を隔てて城生城と対峙するこの立地は、戦略的な意図を如実に示している。秋貞は一時優勢に立ったものの、上杉謙信の救援を受けた城生方に押し返され、退却を余儀なくされたと伝わる。名称は資料によって揺れがあり、「岩木城」「岩木砦」のほか、現地の標示には「加納岩木土塁跡」とも記される。加納地区の地名にちなむとみられ、地域の記憶の中で呼び分けられてきた。遺構は主郭が一辺8間、約14.5メートルの正方形とされ、その周囲に二重の堀と土塁が巡っていたと伝えられる。かつて「145メートル」と誤って換算された例もあるが、実際には規模の小さな砦であったことが確認できる。墓地に覆われた現在でも土塁の高まりが一部残り、往時をわずかに偲ばせる。天正年間に入ると情勢はさらに流動化した。秋貞は織田信長や佐々成政に属して岩木砦を守ったとされるが、上杉方の村田大炊介が津毛城から攻撃を仕掛け、秋貞は再び飛騨へ退いた。さらに天正11年(1583)、秋貞は城生城を攻めるも戦闘のさなかに討ち取られたと伝えられている。猪谷で鉄砲に撃たれ、戸板に乗せられて運ばれる途中で没したという逸話は、地域に悲劇的な記憶を残している。やがて佐々成政が越中を制圧し、天正13年(1585)に豊臣秀吉に降伏すると戦国の動乱は終息に向かい、岩木砦も役割を失って廃されたと考えられる。わずか十数年の短い歴史を刻んだのみで姿を消した小城である。周辺には同時代の城館が多く存在した。対岸の城生城は言うまでもなく、塩屋氏の拠点であった猿倉城、さらに葛原山砦や井田館など小砦が点在し、飛騨と越中の境界地域をめぐる激しい抗争を示している。また近隣の荊波神社の背後には「記塚」と呼ばれる古墳があり、昭和34年に富山市の指定史跡となっている。城跡そのものとの直接の関係はないが、地域の長い歴史を伝える存在として重要である。岩木城跡は国や県、市の史跡指定を受けておらず、知名度も高くはない。しかし現地に立てば、神通川を挟んで繰り広げられた攻防を想像することができる。規模は小さいながら、確かに戦国の舞台となったことを伝える貴重な遺跡である。わずかな土塁の起伏と地形の高低差が、戦乱の記憶を今に留めている。