筑後川昇開橋近くの若津神社。
若津神社の特徴
若津神社の敷地内には公園があり、のんびりと過ごせる空間があります。
大川市向島に位置する若津神社は、自然を楽しめるロケーションが魅力です。
心地よい環境でリラックスできる若津神社の公園が訪れる人に人気です。
公園を含めるとかなり大きな神社でした。隣からはスイミングスクールの元気な声が聞こえて来ました。以下引用させて頂きました。若津神社は、数学の神様有馬頼徸公と学問の神様菅原道真公を祀る、勉学と縁が深い神社です。2月に開催される風浪宮例大祭裸ん行のスタート地点にもなっており、また地元の奇祭「雲助道中」が開催される場所でもあります。春には、境内の広場が一面に桜が咲き誇り、隠れた桜の名所でもあります。住所:福岡県大川市向島2089アクセス:西鉄バス大川橋バス停から徒歩5分。
若津神社は、筑後川昇開橋展望公園の東550mほどの大川市向島の住宅街に鎮座している神社です。創建年代は不詳ですが、明治32年(1899年)の改築の際、素戔嗚命を祀る若津祇園神社に当時の境内社天満宮(菅原道真公)と境内祖霊社(有馬頼徸公)とを合祀し『三柱神社』としました。白峰神社は、かつて若津港の守り神として、地域の関係者が関西方面より御分霊を船に乗せ勧請された神社で、昭和10年(1935年)の国鉄佐賀線開通に伴い筑後若津駅通りの鎮座地より遷座し、当神社へ合祀されました。石橋は、明治25年(1892年)の建立です。狛犬は、昭和6年(1931年)の建立です。御祭神は、素戔嗚命(戦いの神様)・菅原道真公(学問の神様)・有馬頼徸公(数学の神様)です。有馬頼徸は、久留米藩の7代藩主で、享保14年(1729年)父の隠居により16歳で家督を継いで藩主となりました。飢饉が起こった時、領民を救うため、救済金や救済米を施しました。さらに優れた意見を求めるため、目安箱を設置したり、庶民の娯楽として猿楽の興行などを奨励したりしました。また、学問にも長けており、特に優れていたのは和算でした。和算を成立させ算聖と崇められた関孝和の弟子、山路主住について学び、その後、40種ほどの本を書きました。特に「方円奇巧」は円の研究は世界に誇る本です。この本には円周率の計算が行われていて、82桁(これ以前は52桁)まで算出しています。境内社として、常森稲荷神社があります。境内は上町公園ともなっています。昔より「若津の祇園さん」として地域の信仰を集め、春例祭では有馬頼徸少将公に因み通称「少将祭り」として若津雲助道中や若津にわかの奉納行事などで賑わいを見せます。毎年2月10日に開催される風浪宮例大祭『裸ん行』のスタート地点にもなっており、大変賑わっていました。神社のある「向島(むかいじま)」という地名は、かつてあった筑後柳河藩の三潴郡(みずまぐん)向島村に由来します。明治9年(1876年)上向島村・下向島村が合併して、向島村が発足しました。明治22年(1889年)向島村・榎津町・小保町・酒見村が合併して大川町が発足して、向島村は消滅しました。昭和29年(1954年)大川町・三又村・川口村・大野島村・田口村・木室村が合併して大川市が発足しました。若津湊は、筑後川河口から約8km上流に位置します。右馬之丞(うまのじよう)とも称し、一帯は町場化して若津町と称しました。宝暦元年(1751年)羽犬塚町(現筑後市)にあった遊女屋が移転したのに始まります。宝暦2年(1752年)に船問屋が置かれ、のち幕府から廻船問屋の設置を命じられて整備され、筑後米の積出港として繁栄しました。宝暦5年(1755年)幕府日田代官の川筋見分御用にあたり、瀬下(現久留米市)から当湊への船が出ていました。宝暦12年(1762年)若津町の本町上より出火、50軒が焼失しました。江戸時代中期には藩米蔵や幕府領の豊後日田郡から肥前長崎に廻漕される公米蔵が設置され、当地で海船に積込まれました。
大川市向島の若津神社。江戸後期に筑後川の川港として若津を開き、海を持たない久留米藩の物流の玄関口を造った7代藩主有馬頼徸公を祀る神社です。本殿の唐破風中央には有馬家の家紋三つ巴があしらわれています。近年、旧久留米藩主有馬家御当主夫妻、次期御当主も参拝されています。
| 名前 |
若津神社 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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敷地内に公園もあるのでのんびりできる。