島津家ゆかりの美しい墓所。
鹿児島島津家墓所 (玉龍山福昌寺跡)の特徴
玉龍高校の裏に位置する、島津家歴代の墓所です。
静寂な雰囲気の中に、歴史の重みを感じる場所です。
苔に覆われた美しい墓群が、訪れる人を魅了します。
6代~28代のほとんどの島津家当主とその家族の墓所が有る廃寺院跡です。廃仏毀釈で廃寺になる前は1500人の僧侶が居たかなり大きな寺院だったらしいです。今も大きなお寺だった面影も有りますが廃寺になった為に管理が行き届いていなく色々と劣化が進んでいる感じがして寂しい感じがしました。
廃仏毀釈で廃寺になった福昌寺は島津家の墓所となっている。もし今でも寺が存続していたらここら一体は門前町になっていたかもしれない場所。周囲は玉龍高校の敷地となっており、普段は学生の声が聞こえてくる場所。寺の跡には入ることが可能だが、整備が行き届いていないため、あくまでも自己責任での入場であることを認識する。横幅の広い階段を登った跡には島津久光公の墓碑がある。一応、看板には誰の墓がどこにあるといった案内があるが、観光地ではないため、また階段等の整備の問題で大回りする必要もあることが注意点。
島津家代々の皆様がここに眠っておられます。廃寺になっていなければ今もここには大きなお寺があり観光名所になっていたのではないかな。台風の翌週で枝葉が散乱し、自分以外に誰もいなかったので少し怖かったです。鍵はかかっていないですが、最初入口に来た時は本当に中に入っていいのか?という雰囲気でした。案内図は少し分かり難いのでどのお墓がだれのものか判断するのが難しいかもしれません。
島津義弘公のお墓を参りに来ました。場所が広くて、趣深く、色々と考えさせられるものがありました。関ヶ原の戦いに参戦した義弘公がここに眠っているのかと考えただけで、感慨深い‥歴史好きの息子に感謝です✨
玉龍高校の裏側にあります。車で行くと少しわかりにくいかもしれません。静かな場所ですが、掃除が行き届いていてゆっくりと散策を楽しめました。
玉龍高校の裏手にあります。静かで落ち着いた雰囲気です。鳥居が倒壊の危険があるとのことで、立入禁止の区間がありました。鹿児島中央駅から南国交通のバスに乗り、玉龍高校前バス停で降りました。
タクシードライバーさんに案内してもらいました。隣に高校があり生徒達の声が時々聞こえますがそれ意外な自然の音だけのとても静かな良い場所です。お寺の跡が島津家の御墓になっていて墓石がたくさんあります。管理の人も居ないのゴミがあったりしないのも鹿児島の人が大切にしているのだと思います。観光地化されずにひっそりと遺る史蹟はとても良い感じです。
島津重豪延享2年11月7日(1745年11月29日)天保4年1月15日(1833年3月6日)浪費家政策実行による莫大な出費は、最後には大名貸しから資金調達を拒絶され、遂に市井の高利貸しからも借金する(500万両、現代の価値で約5000億円)羽目となり、後世の史料では「薩摩藩が天文学的な借金を抱える原因を作った殿様」として家臣に糾弾されている。曾孫の斉彬の利発さを愛し、幼少から暫くの間一緒に暮らし、入浴も一緒にしたほど可愛がった。お由羅の方由羅(ゆら、寛政7年(1795年)- 慶応2年10月28日(1866年12月4日)は、薩摩藩主・島津斉興の側室である。文政7年(1824年)に斉興の正室・弥姫が死去すると、由羅は、当時弥姫との子(島津斉彬、池田斉敏)以外で斉興の生き残った息子を生んだ唯一の生母であったこともあり「御国御前」と呼ばれて正室同様の待遇を受けた。その後、息子・久光の藩主就任を謀り、長兄・斉彬の廃嫡を目した事からお由羅騒動と呼ばれるお家騒動(高崎崩れともいう)を巻き起こしたとされるが、騒動の鎮圧後に罰を受けることはなかった。なお、孫である忠義の七女俔子は久邇宮邦彦王に嫁し、その長女良子女王は、大正天皇の第一皇子・摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)の妃となった。
♦️日本三大僧録所といわれた巨大寺院 島津家の菩提寺寺中は常に1500余りの人の修行僧があったとされ、静かで広くひっそりしていた❗
| 名前 |
鹿児島島津家墓所 (玉龍山福昌寺跡) |
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| ジャンル |
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| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.4 |
| 住所 |
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鬼島津として恐れられた義弘や幕末に活躍した斉彬などなど、島津代々のお殿様が眠る場所。その割にはマイナー感たっぷり。そして、ちょっとお墓が荒れてます。日本に影響を与えた方々ですからもう少し整備してほしいです…。