金泉寺で静かに心整う。
金泉寺の特徴
四国八十八ヶ所の第三番札所で、美しい朱塗りの仁王門が特徴です。
板野駅から徒歩圏内にあり、落ち着いた静かな雰囲気が魅力です。
黄金の井戸や弁慶の力石など、見どころが豊富なお寺です。
3番札所の「亀光山 釈迦院 金泉寺(きこうざん しゃかいん こんせんじ)」に行きました。一番印象的だったのは、お堂内に最近入れるようになった大師堂です。「五色撚紐(ごしきよりひも)」が大師像と繋がって掴める様になっていて、紐を握って大師様と縁を繋ぎます。また、黄金地蔵尊の「黄金の井戸」は中を覗き込んで顔が映らなかったら死ぬとか、確り映るほど長命だとか。「弁慶の力石伝説」で、源義経が平家追討の命を受け、讃岐国屋島に向かう途中、金泉寺に立ち寄り、戦勝開運の祈願をし、家来の弁慶が力量を披露する為この巨石を持ち上げたとても持ち上がりそうにない石があります。本堂左手には慈悲深い愛情で見守られる「慈母観音」像(ブロンズ像)があり、目線の先にカプセルに入った金色の童子が慈母観音を見て手を合わせている姿などは、周り佇むたくさんの白い小さな観音立像を含めて摩訶不思議な世界観を醸し出していました。歴史・由来聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が寺塔を建立し、「金光明寺」と命名されたと伝えられます。そのころの本尊は高さ約91センチの釈迦如来像で、脇侍に阿弥陀如来、薬師如来の三尊像を安置して開基したといわほれています。弘仁年間(810〜24)になって弘法大師が四国を巡教された際、村の人たちが日照りに苦しんでいるのを見て、この地に井戸を掘られました。この井戸から湧き出た水は霊水で、「長寿をもたらす黄金の井戸」とされ、寺名の「金光明寺」を改め、「金泉寺」としました。その後、亀山天皇(在位1259〜74)が法皇になられ、弘法大師を篤く信仰されて各地の霊跡を巡拝、金泉寺にもしばらく滞在されました。その間に、京都の三十三間堂(蓮華王院)に倣ならった堂舎を建立し、1,000の千手観音像を祀られ、背後の山を「亀山」と命名し、山号も「亀光山」と改めました。この堂舎には経蔵がおかれ、学僧たちで賑わったといいます。以来、皇室との縁が深く、長慶天皇(在位1368〜83)の御陵も本堂裏にある。また、源平合戦(元暦2年=1185)のおり、源義経が屋島に向かう途中に金泉寺に立ち寄り、戦勝開運の祈願をしたと『源平盛衰記』に伝えられています。本堂の左手にある慈母観音子安大師は、義経の祈願所ではあるが、境内西隣にある「弁慶石」もその一つで、義経が弁慶の力試しに持ち上げさせたと伝えられている。すこやかに育てと願う親心の観音菩薩。本尊本尊は釈迦如来(お釈迦様)です。聖武天皇の勅願で行基が本尊を刻み、「金光明寺」と称したのが始まりと伝えられています。脇侍に阿弥陀如来、薬師如来が安置されています。倶利伽羅龍王像1934年(昭和9年)に設置されました。倶利伽羅不動滝がすぐそばにあり、不動明王の化身である龍王が剣に巻き付いた姿をしています。金泉寺は、古くから倶利伽羅不動明王信仰の中心地として栄えてきました。倶利伽羅不動滝が滝行の場であり、現在も滝行の場として利用されています。長慶天皇の御陵長慶天皇は、応永5年(西暦1398年)に金泉寺に滞在中に病に倒れ、そのまま亡くなられたと伝えられています。明治26年には、お墓の下から石碑が発掘され、それが天皇の御陵であることが確認されました。陵は、宮内庁により京都府京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町にある嵯峨東陵(さがのひがしのみささぎ)に治定されているが確証はなく、晩年を過ごしたところが慶寿院で、海門承朝が父天皇の崩後にその菩提を弔うために創建したもので、生前の居所ではないとも言われ確証がない状態です。多宝塔(阿弥陀堂)金泉寺の多宝塔は、本堂の奥、朱塗りの橋を渡った先に位置しています。朱塗りの石段橋と多宝塔のバランスが絶妙で、大変美しいと評判です。多宝塔は阿弥陀堂です。義経ゆかりの八角観音堂金泉寺には屋島の戦いに向かう途中の源義経が立ち寄り、戦勝祈願をしたという伝承があり、観音堂には義経が祈願をした聖観音がお祀りされています。金泉寺の聖観音は別名「勝運(しょううん)観音」と呼ばれ、とても運が強い観音さまと伝わっています。こちらの聖観音が阿波西国三十三観音霊場の札所本尊となっています山門(仁王門)金泉寺の山門は、三間一戸(さんげんいっこ)の楼門造りで、重厚感のある門構えが特徴です。赤い山門が印象的で、板野町の中心地に近づくと見えてきます。山門をくぐる際の作法山門をくぐる際には、一礼し、向かって左側から入り、右側から出るのが一般的です。これは、山門の守護神である仁王像が、左が「阿(あ)形」、右が「吽(うん)形」であることに由来し、人が「阿」から生まれて「吽」で人生を終えることを意味しています。大師堂 朱色の弘法大師座像金泉寺に伝わる弘法大師伝説平成20年(2008年)の大修理時に紛失した絵馬には、淡路島・福良の「漁に出て嵐にあい、港の方向がわからなくなったとき、海上に赤く輝く弘法大師が現れて進む方向を示してくれた」という言い伝えが描かれていました。改修のとき、色あせた弘法大師像の下地を調べると本来は全身が朱色だったとわかり、絵馬の伝説と合致。本来の色に復元されたのが現在の弘法大師尊像です。
四国八十八ヶ所霊場の三番札所、金泉寺。こんせんじ。本尊は釈迦如来。井戸があって、井戸の水が金色に見えるとのことです。
四国八十八ヵ所 3番札所 金泉寺 こんせんじです。御朱印は、西側の納経所でいただけました。参拝者専用駐車場は無料です、仁王門のすぐ左手(西側)になります。
1番、2番札所に続き3番札所金泉寺にも行って来ました。各札所間は車で5分くらいでした。
八十八箇所巡り第三霊場の金泉寺も第一、二から至近距離で訪問し易いです。が、入り組んだ路地の中に在るので大きい車はとてつもなく行きにくい!グーグルマップでナビを設定したら間違いなく難易度の高い道を案内されるのでご注意ください!そして、トイレがとてつもなく匂うので使うのを躊躇いました🙅🏻
お遍路で3番目に御参りさせて頂いた金泉寺です。お大師様もまばたきして歓迎されました。暑いけれど御参りできてありがたかったです。
第二番札所から歩いてきました。納経の方が凍らせたペットボトルを「首を冷やして下さい」とくださりました。そのお気遣いに頑張ってた心がふあっと柔らかくなり、とても清々しい気持ちになりました。
愛犬を連れて伺いました。第二番札所極楽寺からは車で5分ほどで到着しました。大きな朱塗りの立派な門が壮観でした。
2023.12月、二番札所から約3kmの距離を歩いて到着。冬でも体が温まる距離でした。こちらの山門も高さがある立派な門ですね。観音堂や黄金地蔵尊も素敵でした。私の他にお遍路さんは一人しかおらず静かにお参りできました。冬の午後、綺麗な青空に西日に照らされる境内の風景が目に焼きつきました。
| 名前 |
金泉寺 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
088-672-1087 |
| 営業時間 |
[日月火水木金土] 8:00~17:00 |
| HP | |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
|
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第3番札所 亀光山 釈迦院 金泉寺 (きこうざん しゃかいん こんせんじ)高野山真言宗本尊釈迦如来(伝行基作)開基 行基菩薩創建天平年間(729〜749)真言 のうまく さんまんだ ぼだなん ばく金泉寺の歴史・由来聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が寺塔を建立し、「金光明寺」と命名されたと伝えられる。そのころの本尊は高さ約91センチの釈迦如来像で、脇侍に阿弥陀如来、薬師如来の三尊像を安置して開基したという。弘仁年間(810〜24)になって弘法大師が四国を巡教された際、村の人たちが日照りに苦しんでいるのを見て、この地に井戸を掘られた。この井戸から湧き出た水は霊水で、「長寿をもたらす黄金の井戸」とされ、寺名の「金光明寺」を改め、「金泉寺」とした。その後、亀山天皇(在位1259〜74)が法皇になられ、弘法大師を篤く信仰されて各地の霊跡を巡拝、金泉寺にもしばらく滞在された。その間に、京都の三十三間堂(蓮華王院)に倣ならった堂舎を建立し、1,000の千手観音像を祀られ、背後の山を「亀山」と命名し、山号も「亀光山」と改めた。この堂舎には経蔵がおかれ、学僧たちで賑わったという。以来、皇室との縁が深く、長慶天皇(在位1368〜83)の御陵も本堂裏にある。また、源平合戦(元暦2年=1185)のおり、源義経が屋島に向かう途中に金泉寺に立ち寄り、戦勝開運の祈願をしたと『源平盛衰記』に伝えられている。本堂の左手にある慈母観音子安大師は、義経の祈願所ではあるが、境内西隣にある「弁慶石」もその一つで、義経が弁慶の力試しに持ち上げさせたと伝えられている。すこやかに育てと願う親心の観音菩薩。いまも人生の開運を願う参詣者が多く訪れる。金泉寺の見どころ• 沙羅双樹(さらそうじゅ)・熊蜂(くまんばち)以上四国八十八ヶ所霊場会より※ 境内には黄金地蔵尊があり、水面に自分の姿が映れば長寿、映らなければ短命といわれる「黄金の井戸」があります。とても良い所です。是非お参りください。