禁足地の神秘、八幡の藪知らず。
不知森神社(葛飾八幡宮の境外社)の特徴
市川市役所の斜向かいにある、神秘的な禁足地の神社です。
八幡の藪知らずのそばにグレーの竹林が広がり、不思議な雰囲気を醸し出しています。
通り沿いにひっそりと佇む小さな社が、歴史を感じさせる存在感を放っています。
参拝いたしました。本務社の葛飾八幡宮にて御朱印紙をいただきました。
お詣りして来ました。
心霊スポット?何か違う様な感覚あります。別の何か…それにヤブに入ってないですし分かりません💦匂いが言うなら近くのパーキングの階段下にあるゴミ収集箱が気になったくらいですね。
八幡の藪知らずの一部に存在する神社。「しらずもりじんじゃ」と読みます(多分)。入ってお参りOK。
いつも道路🛣️からみてますが、市川市役所の斜めむかいにある、小さい神社⛩️道路から見える。竹藪がいつも素晴らしいな。と思う✨😄※2013年〜※2024年。
2024.7.15 PM15:00 ⭕️御朱印あり八幡の藪知らずの正面に構える、不知森(しらずもり)神社。八幡駅、京成八幡駅が最寄駅になり、各駅徒歩5分ほどで行くことができます。大通り沿いにある竹林を目指すと辿り着けます。背景に八幡の藪知らずがあるため、かなり圧巻です。こちらの境内には社務所はありません。そのため、御朱印が欲しい方はすぐ近くの葛飾八幡宮の社務所にて授与いただけます。現在は書き置きのみの対応となっているようで、初穂料は500円でした。
令和5年最初の参拝をさせて頂きました。八幡の藪知らずの敷地にある葛飾八幡宮が管理している小さい社の神社です。御朱印は葛飾八幡宮に行けばもらえます。八幡の藪知らずは怖い話しがあるみたいですがそれを鎮めるために神社があるのかはわかりませんが敬う心で参拝すれば大丈夫だと思います。日中は市役所近くと八幡駅近くなので人通りはあります。
2022年 聖域の風景 神様の光と龍神様八幡の藪知らず(やわたのやぶしらず)詳細は市川市教育委員会の看板(写真)で確認願います。不知森神社(しらずもりじんじゃ)様竹藪内の小さな祠(ほこら)です。神仏が祀られている場所は全て五ツ星⭐にしています。皆様に神様の光が届きますように。撮影日:2022年5月19日。
こんな街中にもいまだに「禁足地」ってあるんですね。葛飾八幡宮の近所に竹林があって鳥居も見える。神隠し伝説があり、昔から立ち入ることはタブーだそうな。水戸光圀も立ち入り、神隠しにあったが、謎の老人に立ち入ってはならぬと諭されて現世に戻ってきたとか。祭神も不明。ミステリアスですね。ヤマトタケルの陣屋があった等、諸説あり。御朱印は葛飾八幡宮で頂けます。2023.01.09参拝。
| 名前 |
不知森神社(葛飾八幡宮の境外社) |
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| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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書によって「不知森神社」をしらべてみます【いろいろな書による説の簡単な話し】【史蹟名勝天然紀念物調査】では、平貞盛(さだもり)と藤原秀郷(ひでさと)が平将門(まさかど)を征伐した後に、この八幡不知森に呪術的な陣形である八門遁甲(はちもんとんこう)の陣を敷いて、その「死門」だけを閉じずに残した、とあります。水戸光圀がこの地に足を入れた時に、此の地の神霊に「およそ凡人が足を容(い)れるべき場所ではない。強いて入る時は必ず祟りがある。人が入ることを禁じて去るべし」といわれたとあります。【日本名所図会全集】では 藤原秀郷らによって討たれた将門の首が京都へ送られる際、それを奪い返そうとした6人のはなしとなります。彼らは首を隠し、再起をかけてこの森に潜みましたが、力尽きてそのまま「土人形(あるいは土偶人)」へと化してしまったといいます。その後激しい雷雨によってその土人形たちが崩れ、土に還ってしまいました。そこから「この土地(溶けた土)を踏む者には、将門の無念と側近たちの怨念による恐ろしい祟りがある」とされました。【成田名所図会】では 「祟り」とかの話はありませんが、此の地は「官社の跡・格式高い神社の跡地」か、あるいは「国司・大昔の地方長官などの墓域」だったのではないでしょうかとあります。_______________❸【参考 成田名所図会 1973年版】【八幡不知森】昔、八幡宮が鎮座していた土地であると言い伝えられています。今は「法漸寺」というお寺の管理地です。森の中には、小さな石の祠(ほこら)があります。そこにはお稲荷さんが祀られています。地元の村人たちの間では、「もし人がこの中に入った時は、必ず神の祟りがある」と言い伝えられているため、生け垣で周囲を囲って、中に入ることを許していません。【村の境界線だけじゃないだろうという話し】ある説では、この森の周りはすべて八幡の土地ですが、森の土地だけは「行徳(ぎょうとく)村」の所有地であるとのことです。そのため「八幡村の人間は(事情を)知らない」という意味で「八幡しらず」と言うのだろう、とされています。しかし、もしそれだけの理由なのであれば、わざわざ生け垣で周囲を厳重に囲ってまで、人を立ち入らせないようにするでしょうか。おそらく、ただの土地の境界線というだけではない別の理由があるはずです。ここはきっと、必ずや「官社の跡・格式高い神社の跡地」か、あるいは「国司・大昔の地方長官などの墓域」だったのではないでしょうか。【地元の伝説の話し】地元の伝説では、昔、平将門の残党(家臣たち)の霊が「土人形(土偶人)」となって現れたことがあると言われていますが、こうしたことを合わせて考えてみますと、ここはやはり「墳墓(古代のお墓・古墳)」の土地であって、現れた土人形というのは、お墓に一緒に埋められた「殉葬の品(はにわなどのこと)」であるに違いないでしょう。_____________❷【参考 日本名所図会全集 1975年度版】【異説と伝説の話し】昔、平親王将門( まさかど)が、平貞盛(さだもり)の放った矢に当たり、藤原秀郷(ひでさと)によって討たれたと言われていますその後、将門の側近と名乗る者たちが、主君である将門の首を慕ってこの地にやって来ました。そして、この森の中に入って首を隠すなどの作業をしていたところ、最後にはそのまま土人形になって現れたと言われています。その後、雷雨によってその場所が破壊されてからは、この土地を踏む者がいれば、必ず祟りがあるということで、人々は大いに恐れおののいたと言われています。【不知森の名の由来の話し】また、ある人が言うには、この森の周りはすべて八幡村の土地ですが、森の土地だけは「行徳(ぎょうとく)村」の所有地であるとのことです。このような理由から、八幡村の中にある共有地ではありますが、行徳村の土地であるため、八幡村の住民は「事情を知らない」という意味で「八幡しらず」と文字を当てたのだろうと言われています。________________❶【参考 史蹟名勝天然紀念物調査 昭和3年】八幡不知森【伝説の話し】天慶年間(938〜947年)のことの話となります。下総国相馬の住人で、相馬小次郎と名乗る者(※平将門のこと)が謀反を起こした。彼は関東の八州を横領し、自ら「新皇(しんのう)」と称して、偽の「内裏(皇居)」や「百官(役人の組織)」を置きました。朝廷はこの知らせを聞いて、将門を討伐することとしました。平貞盛(さだもり)は勅命を奉じ、官軍の先鋒となって遠江国から下向しました。下野国(現在の栃木県)の押領使(おうりょうし)である藤原秀郷(ひでさと)と合流し、将門を征伐しました。この時、この地(八幡不知森)に陣(呪術的な陣形)を敷いたといます。将門の征伐を終えて都へ帰る際、官軍の将は地元の住人に次のように告げました。「ここは「八門遁甲(はちもんとんこう)の陣(呪術的な陣形)」を敷いた場所であり、そのうちの「死門(しもん・南西)」を一つ残してある。後世、この地に人が足を踏み入れることを許してはならない。もしこれを犯す者がいれば、必ず祟りがあるだろう」そう言って立ち入ることを禁止して去っていった、と伝えられています。しかし、徳川四代将軍 徳川家綱の時代、水戸黄門がこの森の不思議を見破ろうとして足を踏み入れたところ、神霊が目の前に現れました。光圀はその神の恐ろしい力を目のあたりにして、命からがら逃げ出してきました。神霊が「八幡不知森」について語った言葉によると「およそ凡人が足を容(い)れるべき場所ではない。強いて入る時は必ず祟りがある。人が入ることを禁じて去るべし」と言いました。そのため地元の住人は、今でもなお、この森に入る者はいないということです。【昭和3年での現状の話し】面積は 約114坪(114歩)。風情のある林で、正面には「不知森」と刻まれた石碑があります。竹林が青々と生い茂り、その間にはタブノキ、エノキ、シロダモ、ケヤキ、アオキ、ヒサカキなどの樹木があちこちに混じって生えています。古い大木も見られる。土地の面積が狭いため、正面から裏面まで見通すことができますが、頑丈な木製の柵(生け垣)で囲まれており、内部に立ち入って調査することはできません。