大阪の水源、青湾の記憶。
青湾の碑の特徴
豊臣秀吉が愛した青湾の碑は歴史を感じる場所です。
桜の季節には美しいお花見が楽しめるスポットです。
大阪一、二を争う美味しいお水の源だったと伝わります。
きれいな水の源だった?のですね。
太閤秀吉のころ、ここらの水は煎茶に適した水に恵まれていたらしい「この湾の水甘香にて茶に適す 汲みて尽きず青霞を吸うにまさる」とある以下、大阪市のうけうり文人画家の大家である田能村直入(1814~1907)は煎茶に造詣が深く、桜宮近くの清冷な水を湛える青湾の地に「青湾茶寮」と名付けた寓居を定め、日々同志とともに煎茶を愛好した。文久2年(1862)春には、「青湾の地」を顕彰する青湾碑を建立した。これを祝って催された「茗讌」と呼ばれる大寄せの煎茶会は、規模・内容ともに従来のものを大きく超えるもので、近代以降の煎茶会の規範となった。「青湾の碑」は裏面に銘があり、大坂の煎茶史と、あわせて青湾の水が煎茶に如何に適したものかを説いている。煎茶史のうえでの文字通り記念碑的な歴史資料である。
かつて、茶の湯を愛好した豊臣秀吉が好んで使ったという、大川の水を汲むために設けた小湾を偲ぶ碑。この辺りでは、明治初期まで川から汲んだ水をそのまま飲料水として売っていたとのこと。当時の大川は、川幅が今よりもかなり広かったようで、澄み切った水が滔々と流れる、その名の通り大きな川であったようです。なお、この碑は文久2年(1862年)に建てられたもの、とのことです。
桜の季節は良いお花見スポット。
毛馬桜ノ宮公園の中に在ります。只、石碑だけです。
桜宮堤防下の淀川左岸にかつて水が渦巻く青湾という小湾がありました。豊臣秀吉はここの甘く香る水を好んで茶の湯に用い、後世の隠元・高遊外・上田秋成・田能村竹田ら雅人たちも賞賛したといいます。明治28年(1895)に上水道ができるまで、大坂市中の飲料水として水屋が水船に積んで市中に運び、戸毎に供給したのもこの辺りの淀川の水でした。 青湾の名称は秀吉に仕えた茶人・大江青湾に因む、あるいは秀吉が明使献上の西湖の水を数壷沈め、移植した西湖の柳が青く映ったことに因むなど、幾つかの説がありますが不明です。 文久2年(1862)の春、湾の近くに住み、日々に煎茶の水を汲んだ文人画家・田能村直入が播州山崎藩主本多忠明に「青湾」二大字の揮毫を依頼して碑を建てたのが青湾碑です。落成記念には売茶翁百年忌追福を兼ね、大長寺などで「青湾茶会」が盛大に催されました。 のちに青湾は埋められ、青湾碑だけが櫻宮鳥居前の西側に残っていましたが、現在は淀川左岸の毛馬桜之宮公園に移されています。 平成25年(2013)に大阪市の有形文化財に指定されています。
昔の事が知れてよかったけど、漢字が読めない😅
目の前にある川が今はキレイとはいえない。しかし、昔はキレイで飲料水としてそのまま飲むことができたとわかる場所。この石碑見て、向かいの川を観ると、人間がしてきた事が自然に反する事だった事がよくわかります。
昔、大川、櫻宮の堤防下に清らかな青淡色の小湾があった。今は埋め立てられ、石碑も現在地に移動したが、大川の優雅な流れは少しも変わっていない。秀吉は、その湾の水が気に入り、何度もお茶会を開いたという。今は、石碑近くにあった青湾を想像するばかり。石碑は堂々としているので、人々の記憶から消えたりはしないだろう。
| 名前 |
青湾の碑 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| HP | |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
|
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秀吉がここの湾を青湾と名付けたそう。水のきれいな場所として、茶の湯にしばらく重宝していたとのこと。今ではその面影のない水質のように思いますので、意外でした。