Thunderbirdの世界観、歴史を感じる。
大阪砲兵工廠 荷揚げ門の特徴
近代ビル群の中にある貴重な戦争遺跡を体感できます。
大阪湾から資材を陸揚げしていた歴史を感じる場所です。
秘密基地のような雰囲気で想像が膨らむ体験が待っています。
秘密基地の出入口的存在、Thunderbirdの世界観、何か見ていると色々想像してしまいます。門は残されていますが奥は使用できないように埋め戻したのでしょうか。
戦時中には大阪砲兵工廠と軍事産業が盛んで大阪湾から資材と積み換えた船がここから陸揚げしていた遺構です。大阪城ホール作る時によく壊さなかったと思うけど、もうちょっとほったらかしにせずに遺構も大切に扱って欲しいですね。
詳細は他の方の説明にゆだねますが・・・先の戦争中、ここ大阪城がただならぬ位置づけの場所やったことが如実に分かる戦争遺産です。
何もない感じです…せめてですが、正面から穴が見えます。
先日、所用のためホテルニューオータニに連泊した際に、空き時間を利用して大阪城近辺の史跡を見学するため、GoogleMap を調べていたところ、始めて、この史跡の存在を知りました。早速、大阪城新橋から城北川右岸沿いに城の石垣を観ながら歩くこと10分、対岸に整形した切石(花崗岩?)をアーチ型に組んだ荷揚げ門がありました。1871年(明治4年)5月に完成したようです。私どもの郷土の偉人「大村益次郎」は、戊辰戦争の終盤には既に庶民を対象とした徴兵制と銃砲の新式化を中核とした日本の軍制改革の構想を持っていたようです。国内の四方八方の変事に即応できる大阪を軍政及び軍備の中心地にと考えていたことは間違いないと思います。とりあえず、大阪城及びその周辺に①「八連隊」の屯営地を設置する。②軍を動かすために必要となる兵站拠点を設置する。③兵学寮を設置する。この3点を実施しようとしていました。実務は「山田顕義」兵部少輔に任せていましたが、その最中、「大村」兵部大輔は明治2年9月に狂信的守旧派士族「神代直人」(同じ長州人)らの凶刃に倒れました。「大村」先生亡き後は、既定路線として、兵部省役庁、海陸兵学寮、陸軍屯所、砲銃火薬製造局、軍医院が設置されました。この荷揚げ門は、軍需物資の搬入や火薬製造局の原材料の搬入、製品の輸送に活躍したものと思われます。近・現代史を実感できる貴重な史跡であると思いました。大切に保存されることを望みます!
よく残っていたと思います…もっと大切に保存して欲しいものです。
最初見たときは大阪城のお堀につながっているのかなと思ってましたが、ここは川からの荷揚場のようです。
明治の初期、砲兵工廠は材料や製品の荷揚げ、積み込みなどの搬出入を水運に頼っていた。この1871年のアーチ型の水門はその名残だ。OBPと大阪城公園を含む砲兵工廠は、空襲で潰滅したが、この水門は被害を免れた大阪城に残る数少ない戦争遺跡のひとつだ。もし1945年8月14日に時間を戻し、空襲に立ち会うことができれば、この水門前の大川は1トン爆弾と焼夷弾で煮えくり返っていただろう。その日を思い、目を閉じれば、もの言わぬこの水門の価値は、分かるのではないだろうか?
| 名前 |
大阪砲兵工廠 荷揚げ門 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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近代ビル群の中に別世界のようで、とても貴重なものを見ることができました。観光船乗り場も近くにありました。