ペリー上陸の歴史を感じて。
ペルリ提督上陸記念碑の特徴
ペリー上陸記念碑は泊外人墓地の中に位置しています。
幕末の歴史が息づく小さな記念碑が見どころです。
泊港北岸近くで偶然見つけた静かなスポットです。
ペリーが日本上陸に先立ち、1853年5月26日(嘉永6年4月19日)に琉球王国へ訪問した際の碑です(写真奥です)。その後首里城にも入城しました。
2024.01.26泊港の北側にある墓地に碑がたっている。当日は墓地の入口の門が閉まっていたので入れなかった。あのペリーが琉球を訪れていたことはご存知ない方も多いだろう。清に立ち寄ったあと琉球へ来てるはずだ。物乞いが少なく民度の高い国だが支配層は官僚的だ、みたいなことを通訳のウィリアムズが言ってた本を読んだ記憶があるが。自信はない。彼らが訪れたころとは景色は全く異なる。当時は琉球八社の天久宮が海に突き出した風景だろうか⁉
蒸気機関車と関連のある方にですので、観光コースとし、見学させて頂きました。
ペリー上陸記念碑は泊外人墓地の敷地内にある。看板によると、管理者は米軍ではなく那覇市のようだ。(横浜外人墓地は外国領事団がつくった公益財団が管理)1852年11月、ペリー提督率いる米海軍東インド艦隊は、米国東海岸を出港、東廻りで日本向かった。ケープタウン、セイロンなどを経て、1853年5月26日那覇沖に来航。ペリーは琉球を日本侵攻の拠点として確保すべく上陸して琉球国王との面会を求めた。琉球国王は面会を拒否するが、1853年6月6日ペリーは武装兵200人と共に首里城に進軍する。大砲を引いて進軍してきたペリーに、国王は止む無く入城を許す。この記念碑にはペリーが首里城に入城した日付が刻まれている。その後、ペリーは艦隊の一部を那覇に残して小笠原を探検、一方的に小笠原領有を宣言する。(以上wikiより)琉球王府はペリーを食事でもてなすなどして武力制圧は免れたものの、日本への拠点に利用されてしまった。那覇を出て江戸に向かった4隻のペリー艦隊は、7月8日江戸湾(東京湾)に侵入して砲艦外交を開始、幕末の江戸に大騒動を引き起こす事になる。この石碑が建設されたのは1964年、沖縄が米国に統治されていた時代。銘板によると、この石碑を残したのはペルリ提督記念碑委員会で、最初に高等弁務官府の名がある。当時の沖縄は琉球列島高等弁務官の統治下にあり、この記念碑が建てられたのは、沖縄の本土復帰に反対した米陸軍キャラウェイ高等弁務官の在任末期にあたる。米国主導による建立という点は、米国退役軍人の要望で建てられた久里浜のペリー上陸記念碑と同じ。
泊高校横にある外人墓地の中にペリー提督上陸記念碑。道向かいには慶良間諸島の座間味島と渡嘉敷島行きの高速船乗り場があります。
「外人墓地」内にある記念碑。今回、墓地の門扉が閉まっていたので、外から見学です。
普通の日に寄ったら整備清掃をしてる方がいた。それで毎日綺麗なのか!
マシュー・カルブレイス・ペリー提督が再上陸し、琉米修好条約1854年7月14日、2020年現在から、166年前に締結された。正式名称は「亜米利加合衆国琉球國政府トノ定約」条約は、第一条から第七条まであり、(第五条)アメリカ人墓地を設置及びその保護 とある。166年経つ今でも引き継がれている。条約の(第七条)アメリカ船舶への薪水の提供に関する費用等 があり、琉球側に聖現寺(ファミリーマート側の道を山側へ登って左手に曲がると、赤の鳥居が⛩天久宮で、その隣)の一年間の賃貸及びその協定を承諾させた。その頃の聖現寺の場所は,現在の泊高校。
🌊泊港北岸近くにある泊外国人墓地は、その昔、布教や交易で沖縄に移住した異国の人々が眠る地です!!🙏🚢奥の一角には、1854年に日米和親条約を締結した🇺🇸アメリカ大使『ペルリ提督の上陸記念碑』が立っています!!🗽⚓️ペルリ提督、つまりペリーは1853年に那覇へ初来航、翌年に再度立ち寄り、琉米修好条約を締結しました!!🌟。:*
| 名前 |
ペルリ提督上陸記念碑 |
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| ジャンル |
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| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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門は施錠されていて、入れませんでしたが壁が無いので、良く見えました。十字架✝️沢山並んでいました。