糸満の戦時歴史を体感!
糸洲の壕 (ウッカーガマ)の特徴
道路沿いにある看板でアクセスしやすい場所です。
小池勇助軍医の訓示が残る歴史的な壕です。
旧日本軍第24師団第二病院跡としての重要性があります。
足場がきれいになっており、きちんと手入れされていました。
壕口までの階段が綺麗に整備されて見学が用意になりました。近くのウンジャーガマや二本松の壕と繋がってるみたいです。ここは沖縄戦当時、第24師団第2野戦病院壕として使用され長野県佐久市出身の小池勇助病院長率いる積徳高等女学校のふじ学徒隊が看護活動にあたっていました。日本軍の組織的戦闘が終わり沈静化した昭和20年6月26日に解散命令により学徒隊は解散し小池病院長は青酸カリにより自決しました。解散時に小池病院長は学徒隊に対して死ぬことを禁止し生き残って親元に帰ることを厳命しました。解散後、生徒もその命令を厳守し動員数25人のうち戦死者は3名と他の学徒隊に比べて少ない結果となりました。
糸満市の自然洞窟に 戦時中野戦病院が置かれてたようです。軍医・小池勇助さんが悲愴な死を遂げられた場所。哀悼の意を捧げました。
しばらく立ち入れなかったが、2025年6月現在清掃され壕に入れるようになっている。しかし壕内は川があり、大雨時には増水する可能性がある。特に地下水脈は地上での降雨とはタイムラグがあるので、雨が晴れたからといって安易に入壕するのは危険がある。壕に入るには専門のガイドを依頼したほうがよい。
ガマ奥まで水が流れ、コウモリの居るかなり湿気が強いガマで、本部病院壕より…怖いです。したまで手すり階段ありますが、泥濘度が強く足元注意。
入り口近くならばなにも道具なしで行けるが暗くなる部分からヘッドライトや長靴など必要です。駐車場無いです。
道路沿いに案内標識、看板があります。道から近く比較的見つけやすい場所です。昔は他の戦跡と同様にそれなりに整備されていました。331号からわき道に入ると生活道路と農道で車の離合もできない狭い道幅です。周囲はサトウキビ畑です。一時期平和学習などで砂利の駐車場ができたりしました。しかし、見学者の行状などが問題になってしまい使われなくなり、今では草が生い茂っています。私は碑のところに2か所ご焼香して帰っています。詳細は写真をご覧いただいて参考にしていただきたいと思います。近くの轟壕とは中でつながっているとのことです。なお、大きなクモがいたりハブ取りの罠の中にハブが入っていたりしたこともありました。十分ご注意してご焼香をお願いいたします。
近くにあるウンジャーガマと轟の壕に繋がっています。小池隊とふじ学徒隊が撤退してきた壕。隊長である小池勇助自決の地であり、ふじ学徒隊の解散の場所でもある。
長野県佐久市出身の小池勇助軍医がふじ学徒隊に解散命令を発令しその訓示が後世に残っている由来の壕です。壕内には入ることは出来ませんでした。
| 名前 |
糸洲の壕 (ウッカーガマ) |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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糸洲の壕は、もともと住民の避難壕として使用されていたガマであったが、のちに陸軍第24師団第2野戦病院として使用された。この部隊もまた、1945(昭和20)年5月22日に司令部が決定した南部撤退に伴い、5月末ごろにこのガマに入ったとされる。部隊のなかには、動員された私立沖縄穂積高等女学校の生徒たち(穂積学徒隊)も含まれていた。野戦病院の部隊長であった軍医・小池勇助少佐は、米軍の猛攻撃が沈静化するまで学徒隊へ解散命令を出さず、1945年6月25日の学徒隊解散命令の際には、学徒たちに「生き残って親元に帰りなさい」「戦争の悲惨さをみんなに話してくれ」と述べた。小池少佐自身は青酸カリで自決した。穂積学徒隊は戦死者3人にとどまっている。なお、小池少佐は長野県南佐久郡野沢村(現・佐久市)出身であり、このガマの解説板は沖縄本島南端にありながら、長野県佐久市によって制作されたものである。ただ、よく調べると、上記の糸洲の壕の叙述には美談的な要素も含まれている。野戦病院がこのガマを使用するに伴い、もともと避難していた糸洲の住民が壕から追い出されているのだ。6月になると米軍は南部へ進攻し、攻撃は激化する。そのなかで避難場所を失った住民60〜70人が亡くなっている。ここには、日本軍がガマを支配し、地域住民が虐げられたという関係性を見出すこともできるだろう。さて、装備を整えて、いよいよガマへ入壕する🚶♂️このガマには出入口が2つあり、北側をウンジャーガマ、南側をウッカーガマと呼んでいる。今回はウッカーガマ側から入壕した。ウッカーガマ側の出入口には階段が整備されており、だいぶ奥まで進むことができる。ガマの内部は他のガマと同様に湿度が非常に高く、天井から結露した雫が落ちてくる。また、琉球石灰岩特有の匂いが漂っていた。ヘッドライトがなければ完全な暗闇である。ガマの奥へ進むと、水が流れていた。ガマの奥まで進み、地上へ戻る途中、「陸軍薬剤大尉」と「山三四八七部隊」の二つの供養塔を見つけた。奥へ入る際には気づかなかったようだ。また、その近くには、人骨のようなものが残されていた。これは衝撃的な体験だった。もしこれが人骨であったならば、それは自分にとって初めて人の骨を直に触れる経験であっただろう。沖縄戦の戦没者のなかには、いまなお遺骨が遺族のもとに返還されていない方が多くいる。そして現在も、戦没者の遺骨収集は続けられている。それらを鑑みると、この骨も戦没者の遺骨であった可能性がある。明らかに人目につく場所に置かれていたため、誰かが発見し、ここに安置したものかもしれない。供養塔と人骨らしきもの――このガマのなかにも、沖縄戦下で人々が生きた痕跡が残っていた。また、ガマのすぐそばには二つの慰霊碑が建立されていた。一つは「鎮魂之碑」で、野戦病院の将兵、現地の防衛召集兵、看護婦、穂積学徒隊を慰霊するものである。もう一つは「鎮魂の碑」で、おそらくこのガマに関連して沖縄戦下で亡くなった一家の慰霊碑であろう。