戦国の歴史、長島山で感じる。
長島一向一揆殉教之碑の特徴
戦国時代の歴史が感じられる名所です。
願證寺本堂前の美しい記念碑です。
一向衆と信長の戦いを偲ぶ場所です。
信長を困らせた一向衆との戦いの跡です。実際に交戦した場所は散らばっていてはっきりしませんが、供養のため建てた碑がこのお寺の境内にあります。水田の真ん中にお寺があり、道が農耕用のためすこぶる狭いですよ。もちろん区画整理などしていないので、村中も走行注意です。軽自動車がおすすめですね。
戦国の歴史が偲ばれます。1501年、浄土真宗の蓮如の子、蓮淳が長島願證寺に入ったことにより、浄土真宗(一向宗)のこの地で拡大。長島・桑名・尾張西部・美濃南部・北勢地方に広がった。長島は一向宗の重要な拠点。1537年に、願證寺は長島を支配していた伊藤一族を追放し、長島をの領地とした。織田信長は京都進出の前年1567年北勢に侵入した。北勢48家といわれた豪族達を破り、1568年には南勢の北畠氏も滅ぼした。しかし、長島の一向門徒達は信長に従っておらず、10万人を超える勢力であった。この一向門徒達と信長の間で起った戦いが『長島一向一揆』である。1571年から戦いは3回に渡って行われ、最期まで砦に残っていた男女2万人余りは、周囲に柵を設けて閉じ込められ、四方から火を放たれて壊滅した。
浄土真宗本願寺派のお寺で、長島一向一揆の慰霊碑が建っています。これだけ開けている土地柄だと、逃げるに逃げられなかったんだろうなと。南無阿弥陀仏。
| 名前 |
長島一向一揆殉教之碑 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[火水木金土日月] 24時間営業 |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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長島山 願證寺さん本堂前に建立されていて、石碑、碑周り等綺麗に維持・管理されています。※資料を引用しご紹介します。【長島一向一揆殉教之碑】1570(元亀元)年、長島願証寺(ながしまがんしょうじ)を中心とした浄土真宗門徒(じょうどしんしゅうもんと)が、織田信長の拠点であった小木江城(こきえじょう)を改め、信長の弟 信興を自害に追い込んだことから始まりました。対立の背景には、織田信長が永禄11(1568)年に上洛をした際、本願寺に「矢銭(やせん)」といわれる軍用金5,000貫(米1万石相当=約1,500,000kg)を要求しました。当初、本願寺は、これを支払って信長との関係を穏便にすまそうとしましたが、その後も信長が本願寺に圧力をかけ続けてきたことで、本願寺側も三好三人衆や浅井・朝倉氏などと連携を図り、反信長勢力の一翼を担うようになりました。本願寺は、全国各地の門徒たちに檄文を送り、これに呼応した桑名周辺の門徒たちは長島願証寺に続々と集まり、願証寺証意を盟主として一揆を起こしました。信長の攻撃は、1571年から1574年まで3回にわたり、当初、織田軍を苦しめましたが、信長包囲網(のぶながほういもう)が崩れたこともあり、願証寺側の戦況が厳しいものになりました。結果、一揆勢の死者は2万人にのぼったといわれており、日本史上に残る凄惨(せいさん)な出来事でした。この一揆は、長島地区に限った戦いではありませんでした。大鳥居(おおどりい)や柳ケ島といった揖斐川の西岸の地域でも戦いが行われました。と、なっています。