家光の天守閣模型、歴史の息吹。
江戸城天守復元模型の特徴
皇居東御苑内に位置する江戸城天守復元模型は必見のスポットです。
江戸時代初期の天守閣の模型があり、歴史を感じる展示が魅力的です。
本丸休憩所売店のそばで、写真撮影が楽しめる貴重な体験ができます。
2025年5月15日(木)、日本100名城の見学を目的に、江戸城跡を訪問しました。江戸城跡全域が、城郭というより皇居東御苑としての性格の方が強い。江戸城の天守は慶長、元和、寛永に築かれたそうですが、この模型は徳川家光への代替わり時である寛永の天守の1/30スケール。外観、構造などの資料の写しも展示されていますので、建築自体がお好きな方には興味深いかもしれません。2020年からの公開なので、比較的新しい。展示用建物も含めて総費用1億円だったそうです。この精密な模型の存在は知りませんでした。江戸城跡見学で、これを観られたことは、良かった。歴史遺構ではないものの、無料で見学できる点や整備されたトイレ、休憩所・売店など周辺施設の充実と併せて、星4つと評価しました。
家康、秀忠、家光で天守がそれぞれ築き直されたとされます。なんという贅沢な、、、!富士の山がバックに映えたとされる江戸城の復元模型を是非ご堪能ください。
大手門から入ってこちらの模型を見に来ました。この先に天守台があるので、セットで見ると楽しいですよ。
今の天守台に建っていた天守閣の模型ではありません。今の天守台に天守閣が建つことは有りませんでした。その経緯は私なりに天守台のクチコミに投稿させて頂きました。模型として一見の価値が有ります。撮影可が有難いです😊。
家光の頃に立て直された天守閣の復元模型です。秀忠・家光の頃の天守閣は、休憩所の北側の天守閣跡にありましたが、家康が建てた天守閣は、休憩所のちょうど前方にある富士見多門のあたりにあったそうです。これだけ広い本丸なので、時代によっては天守閣の位置も変遷しているのは面白いです。とは言え、天守があった時代は、江戸時代の最初の50年程で、その後は、富士見櫓がその役目を果たしてました。
模型でなく、修復した本物を見たいという気持ちがむくむくと湧いてきました。後日、本当に再建する案があることを知りました。1人から1000円の入館料を取れば、10年でペイできるということなので、ぜひやるべきだと感じた次第です。
家光の頃に立て直された天守閣の復元模型です。秀忠・家光の頃の天守閣は、休憩所の北側の天守閣跡にありましたが、家康が建てた天守閣は、休憩所のちょうど前方にある富士見多門のあたりにあったそうです。これだけ広い本丸なので、時代によっては天守閣の位置も変遷しているのは面白いです。とは言え、天守があった時代は、江戸時代の最初の50年程で、その後は、富士見櫓がその役目を果たしてました。
模型説明によると【江戸時代初期の50年間に3度も建てられた江戸城の天守は3度も建て直されています。 模型は3代将軍徳川家光が建てた3度目の天守にあたります。 寛永15年 (1638年)に竣工しましたが、明暦の大火で 焼失するまで20年間しか存続しませんでした。 4度目の天守の再建計画はありましたが、 石垣の天守台のみ造られて中止となりました。明暦の大火で江戸の町の大部分が焼失し、軍事上無用な天守の再建より、町の復興を優先させた、と言われています。以降は、同じ本丸の南にある富士見櫓 (現存) 守の役割を果たしました。模型の設計にあたって、 建築構造は 『甲良家文書』 (東京都立中央図書館所蔵) の図面を基にしました。 屋根、壁、金具類等の材質や色彩は『江戸図屏風』 (国立歴史民俗博物館所蔵)の天守の絵を参考にしました。 細部の形状は、 名古屋城や姫路城など建設時期や規模の近い天守、家光が関わった日光東照宮の建物、さらに江戸城の現存する櫓や門を参考に推定しました。 石垣の積み方は、建設時期が近く、 徳川幕府によって築かれた大坂城と二条城の天守石垣を、色彩は江戸城内に残っている寛永期のものと思われる石垣を参考に、 模式的に表現しました。現在の天守石垣について現象、本丸北隅に残る石垣は、明暦の大火の翌年、万治元年(1658年) に加賀藩が担当して再建された天守台です。建物は計画図面まで描かれましたが、 再建は中止されました。 天守が無い状態が210年間続き、江戸時代は終わりました。 再建天守台は寛永期天守と同規模の建物が乗る面積ですが、高さは寛永期のものより1間低く造られました。 寛永期天守の天守台には、伊豆石という黒い石材が用いられましたが、 再建天守台の外周の石材は、寛永期とは異なる白い安山岩が用いられました。 再建天守台の内側などの一部には黒い石材が用いられて いますが、寛永期のものを再利用したと考えられています。】
皇居東御苑内にある施設です。江戸城天守の再現模型だけではなく、色々な資料も展示されています。
| 名前 |
江戸城天守復元模型 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| HP | |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
|
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江戸城天守復元模型〒100-0001 東京都千代田区千代田1-1 江戸城跡四辺に書かれている説明文をまとめると、江戸城の天守閣は1607年に徳川家康が築き、二度の改築を経て1638年に家光による壮麗な五重六層・高さ約60メートルの天守が完成した。しかし1657年の明暦の大火で焼失し、翌年、加賀藩主前田綱紀の指揮で再建された天守台のみが残る。第四代将軍家綱は再建を試みたが、保科正之の進言で中止され、以後210年間天守閣は再建されなかった。基壇には瀬戸内海産の白色安山岩が使われ、内部には旧天守の伊豆石が再利用されているということがわかります。江戸城寛永度天守復元模型(縮尺1/30)日本一高層の天守江戸時代、この場所が江戸城の中心、本丸でした。江戸時代の初期には、この本丸に3度、天守が築かれました。この模型は、そのうちの最後のもので、最も大きかった寛永期の天守を復元したものです。五重6階の建物と石垣の天守台を合わせた高さは約60m、20階建てのビルに相当し、この天守は日本にあったいろいろな城の天守の中で最も高いものでした。建物の壁は銅板と漆喰、破風には飾り金具が付き、屋根は銅瓦葺で、最上の棟に金色の鯱が輝いていたと思われます。南側の小天守台から石段を登り、天守内に入ったと考えられます。本丸の標高を入れると約80mになり、江戸の町にそびえ立つ豪壮な天守でした。Scale Model of the Third Edo Castle Keep (Scale 1:30)The Tallest Tenshu Ever Built (1638)We are at the heart of the honmaru, the central part of Edo Castle, which embraced the palace of the shogunate and other buildings. The most fascinating construction was the castle keep, “tenshu.” The initial castle keep was built in 1607 but completely refurbished twice in the early Edo period. This is a scale model of the last and the tallest castle keep built in 1638. The five-tiered-six-story keep with its stone base towered almost 60 metres above the ground, which is equivalent to a 20-story building, and is considered to be the tallest keep ever built in Japan. The walls were made of white shikkui plaster and copper sheets coated with black plaster, while the gables were decorated with metal ornaments. The roof was copper-tiled and had a pair of golden shachihoko, mythical sea creatures, at the very top. People would mount the castle keep by a flight of stone steps accessible from the small keep base on the south side. The total height including the elevation of the honmaru was approximately 80 metres, making the castle keep a lofty and magnificent building towering over the city of Edo.現在の天守石垣について石垣まで造られ中止された4代目の天守現在、本丸北隅に残る石垣は、明暦の大火の翌年、万治元年(1658年)に加賀藩が担当して再建された天守台です。建物は計画図面まで描かれましたが、再建は中止されました。天守が無い状態が210年間続き、江戸時代は終わりました。再建天守台は寛永期天守と同規模の建物が乗る面積ですが、高さは寛永期のものより1間低く造られました。寛永期天守の天守台には、伊豆石という黒い石材が用いられましたが、再建天守台の外周の石材は、寛永期とは異なる白い安山岩 が用いられました。再建天守台の内側などの一部には黒い石材が用いられていますが、寛永期のものを再利用したと考えられています。The Base of Edo Castle Keep TodayThe Lost Tenshu, the Fourth Castle KeepThe existing stone wall on the northern corner of the honmaru known as "tenshudai," the base of the castle keep, was built in 1658, a year after the Great Fire of Meireki. The construction was directed by a daimyo, a feudal lord called Maeda Tsunanori of Kaga-Kanazawa domain. The fourth shogun Tokugawa Ietsuna immediately began work on the fourth castle keep, but after completing the foundation, the construction of the keep itself was aborted when Ietsuna's uncle Hoshina Masayuki (stepbrother of Tokugawa Iemitsu) pointed out that stable and peaceful Japan no longer needed such a fortification. The priority was given to reconstructing the city. Since then, Edo Castle had not seen any tenshu for 210 years until the Edo period came to an end. The rebuilt base was mounted approximately 1.8 metres lower than the previous one, but it covers an area in which a building of the same scale as the preceding keep would fit. White andesite stones brought from Seto islands were used for the outer surface of the base. The previous base had black granite stones known as Izu-ishi stones. We can still find some black Izu-ishi stones within the interior of the rebuilt base; it is considered that previous stones were reused.江戸城天守の変遷江戸時代初期の50年間に3度も建てられた江戸城の天守は3度も建て直されています。模型は3代将軍徳川家光が建てた3度目の天守にあたります。寛永15年(1638年)に竣工しましたが、明暦の大火で焼失するまで20年間しか存続しませんでした。4度目の天守の再建計画はあり ましたが、石垣の天守台のみ造られて中止となりました。明暦の大火で江戸の町の大部分が焼失し、軍事上無用な天守の再建より、町の復興を優先させた、と言われています。以降は、同じ本丸の南にある富士見櫓(現存)が天守の役割を果たしました。天守模型復元にあたって幕府の大棟梁関係図面、江戸図屏風等を参考模型の設計にあたって、建築構造は『甲良家(こうらけ)文書』(東京都立中央図書館所蔵)の図面を基にしました。屋根、壁、金具類等の材質や色彩は『江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)の天守の絵を参考にしました。細部の形状は、名古屋城や姫路城など建設時期や規模の近い天守、家光が関わった日光東照宮の建物、さらに江戸城の現存する櫓や門を参考に推定しました。石垣の積み方は、建設時期が近く、徳川幕府によって築かれた大坂城と二条城の天守石垣を、色彩は江戸城内に残っている寛永期のものと思われる石垣を参考に、模式的に 表現しました。