原城を巡る歴史の旅、駐車場から徒歩で!
板倉重昌の碑の特徴
原城の戦で亡くなった幕府軍総司の史跡がある場所です。
大手口の駐車場からのアクセスが便利で歩いて巡れます。
歴史的な価値を感じながら、静かな散策が楽しめます。
原城の戦で戦って死亡した幕府軍の総司。
| 名前 |
板倉重昌の碑 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| HP |
https://www.city.minamishimabara.lg.jp/sekaiisan/kiji0034735/index.html |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
|
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大手口の駐車場から歩いて史跡を順に巡ってやって来た。三の丸、二の丸、本丸近辺を見学しようとするときは、付近の道路に車は止められないので歩かなければならない。また、それが原城巡りにはちょうどいい。ここは石垣で囲われた高台のようなところであるから、直ぐに見つかる。この碑は北三の丸の一画にあたる。重昌が討死した場所に建つという。碑は延宝九(1681)年にできたそうだが、建立は寛政九(1797)年になったそうだ。どうしてだろう?板倉重昌は三河深溝[ふこうず]の藩主で、板倉勝重(関ヶ原の戦いの後、京都所司代となり京都の治安維持と大阪城の豊臣家の監視をするという重要な役割を与えられ、家康からの信任の厚い人物)の二男であった。重昌は島原・天草一揆が起こると、三代将軍家光の命により征討軍の統師(上使)として派遣されたが、たかが1万5千石の小大名であった。重昌が指揮を執るべき諸大名は鍋島家35万7千石や細川家54万石、有馬家21万石(因みに、この有馬家は筑後久留米の有馬豊氏で、肥前有馬氏系統とは全く別の摂津有馬氏系統である)、立花家10万9千石等などの桁違いの大身であり、中々統制が取れず苦戦していた。そんな中、江戸の兄重宗からの書状で、老中の松平伊豆守信綱が統師(上使)に任命されたことを知った。重昌は追手が退いたのを怒り、また功を焦り、鎗を採って先頭に進み城に迫ったが、胸部に銃弾を受け壮烈な戦死を遂げた。他に選択肢はなかったのか? 何か板倉重昌に憐れみを感じる。《2023.7.21訪問》