寒河江城墟碑で歴史散策を!
寒河江城跡の特徴
小学校に隣接した歴史的な場所であり、学生が歴史を学ぶ環境です。
城跡としての名残は薄いが、石碑や説明板が歴史を伝えています。
散策を楽しめる広いエリアがあり、訪れる価値があります。
寒河江氏史跡2019年7月13日来訪。大江広元が1189年の奥州合戦の戦功で、長井荘、寒河江荘の地頭職を得、嫡男親広が寒河江荘の地頭職を相続した。しかし1221年の承久の乱で、親広は後鳥羽上皇側に付き、敗れて失脚、この地に隠棲、その後許され、この地に館を建てた。南北朝時代になると、寒河江大江氏は南朝に味方、陸奥守鎮守府将軍北畠顕家と共に上洛し、足利尊氏と戦った。その後、大江時氏の代に北朝に降り、鎌倉公方に対し寒河江氏を称したのが、寒河江氏の呼称のはじまりとされ、寒河江城を城として整備したのも時氏の代である。戦国時代においては、伊達氏、最上氏の侵攻や、最上氏の内訌(義守対義光)等に巻き込まれる中でかろうじて勢力を保つが、1584年、寒河江高基の代に最上義光に攻められ、寒河江氏は滅びた。現在城跡は寒河江市立寒河江小学校や住宅地となっており、石碑と堀跡がある。
小学校と隣接しており、ここの学生さんは地元の歴史を学べるのだろうなと羨ましく感じました😊まだまだ散策したいです😊
石碑と説明板があるだけです。
現在は小学校となっているため、天守はもちろん、石垣や門などは残っておらず、かつて城があったことを示す石碑や看板があるのみとなっています。しかし、それだけでも貴重だと思う。
| 名前 |
寒河江城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 営業時間 |
[日月火水木金土] 24時間営業 |
| 評価 |
3.3 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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寒河江城墟碑寒河江城は大江氏累代の居城にして規模広大実に河西の重鎮たり。史を按するに大江親廣公承久の役、官軍に応じ軍敗して当地に遁れ城を築きて居す故墟本丸東西60間南北85間繞らすに湟を以ってす。二三の外郭亦之れに適う親廣公より凡そ18世據て以て治す。一族克く始祖の意を紹き勤王の志厚く力を撫民に效す。天正12年高基公山形最上氏と隙あり奮戦遂に貫見に陣没す。嗚呼雨来春風秋雨茲に350有余年今なお郭塹處々に残存して昔時の盛観を偲はしむ。天正14年10月本県史蹟に指定せらる町民夙に其の遺徳を懐い史蹟の壊滅を憂ふるや久し今茲。神武皇紀2600年の大典に当り碑を建て以て永く記念と為すと云う。昭和15年11月10日 寒河江町長 安孫子善吉識(記述文字を、一部変更しています)寒河江城寒河江城は、鎌倉時代の初頭、寒河江領主第一代大江親廣によって計画され、初めは本丸だけの館城でしたが度々改築を加え、遂に室町時代の初期八代時氏によって、二の丸、三の丸を持つ寒河江城が完成したものである。大江氏の領地は西村山郡の大部分を占め、石高に換算して八万石と伝えている。そして戦国時代の天正十二年、十八代高基の時、山形城主最上義光と戦って破れ、高基は貫見の御楯山で自刃し大江氏は滅亡した。寒河江城が完成したのはいわゆる戦国の城郭時代より早いので、まだ天守閣や壮大な石垣の設備はなかった。平成9年4月 寒河江市教育委員会。