善隆寺で感じる城跡の歴史。
石部城跡の特徴
善隆寺の地所が石部城址として知られています、
織田の武将佐久間信盛に攻められ石部城は落城しました、
天正2年の戦いで六角父子が無事脱出した歴史があります、
善隆寺から比高を感じられますが、遺構は確認できませんでした。
天正2年、織田の武将佐久間信盛に攻められ、六角父子は無事脱出するが、石部城は落城した。
真田戦記石部城跡滋賀県湖南市石部中央2丁目5−46織田信長の攻撃を受けた六角義賢は、甲賀の土豪望月氏の協力によって、観音寺城から甲賀の入口(甲賀口)にあたる石部城に入ることができました。そして石部城籠城のあと、伊賀へと逃走していきますが、石部城は、石部郷、石部の南方、殿代に築かれた山城で、戦闘用の城塁ではありませんでした。(石部町史より)それまで石部郷を支配してきた甲賀武士の青木氏や、甲賀五十三家の一族で青木氏を名乗る石部氏などが居城にしていました。(日本城郭大系より)その石部城に入った六角義賢は、甲賀武士と土豪の糾合を図って六角氏の再興を準備し、信長に対抗しましたが、野洲河原の戦いにおいて敗退し、その権勢は次第に後退しました。六角義賢が野洲河原で大敗したのちの石部城は、元亀二年に織田信長の家臣で、当時永原城にいた佐久間信盛の領有となって、寺西治兵衛なる者の地行所となりました。信長直臣の武将佐久間信盛は永原城にあって、延暦寺焼き打ち後に信長から野洲・栗太の両郡とその近郷の村々が安堵されます。その信盛の石部城攻撃は、野洲河原合戦後の六角氏と、それを支援した甲賀武士の壊滅を意図したものが想像されます。一方、延暦寺の末寺で天台宗の長寿寺をもつ東寺と同じ天台宗の常楽寺伽藍が存在した西寺が、ともに延暦寺領であったことに関連して、寺領の没収はもちろんのこと、宗派に対する徹底的な征伐の意図もありました。延暦寺の焼き打ちに続いて、長寿寺と常楽寺が存在した石部も兵火に見舞われ、村落を消失した宗徒は四散していきました。(石部町史より)「甲賀口」石部郷の村落も、惣村的性格を残しつつも、城(館)付きの田中・植田・谷・蓮・平野の五ヶ村が石部に村落結合をみることになっていきます。しかしながら、信長の急死と秀吉の登場は、石部郷の支配領主も交替をみることになっていったのであります。
確かに石部城跡と言うのは正しいそうですが、今はお寺になっています。なので城跡感があるのは石垣くらいですかね?お寺は結構綺麗なところでした。
知らなかったが、善隆寺さんの地所自体が、石部城址のようですね。ちょうど外出するご住職にお聞きしたので、間違いはないと思いますが、石部城址にあたるものは何もないとのこと…善隆寺自体は何回か訪れていますが、ちょうど入り口辺りに地蔵尊を祀るお堂があって、たまたま参りに来られた地所の人にもお聞きしたので間違いはないと思います。善隆寺は浄土宗のお寺さんで、確かこのお寺さんのご住職は比叡山の偉いお坊様ではなかったですかね。この辺りは石部中央に位置するようです。
城跡とのことだが遺構は皆無。低土塁ぽいものは見受けられるが遺構ではなさそうだ。付近の高札場址に城跡説明板があったものの城跡碑はなかったなー。
| 名前 |
石部城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[金土日月火水木] 24時間営業 |
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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城跡は善隆寺となっています。