三木A遺跡で歴史旅を!
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| 名前 |
三木A遺跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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三木A(みきA)遺跡は、石川県加賀市三木町、大聖寺川支流の奥の谷川沿いにある遺跡だ。1986年に河川改修工事で最初の調査が始まり、その後1994年、1995年にも追加調査が実施されて、さまざまな時代の遺物が出土した場所だ。ここは旧石器時代から縄文、弥生、古墳、奈良、平安時代を経て、中世、近世に至るまでの遺物が積み重なっている「包含地」と呼ばれる遺跡で、言わば過去数千年分の歴史の断面が、地層ごとに保存されている貴重な場所だと言える。遺跡の地層は主に3つに分かれていて、一番上の層(第1面)は古代から中世頃、その下の層(第2面)は古墳時代、一番下の層(第3面)は弥生時代のものと考えられている。また、この地層のさらに下には縄文時代の土器も散らばって見つかっているが、これらは丘陵の上から川などによって流されてきたものらしく、この場所に縄文時代の人が住んでいた証拠とはされていない。三木A遺跡の特に興味深い点は、弥生時代から中世にかけての多様な生活痕跡が明確に分かることだ。柱穴や土坑、溝、畝溝状遺構といった集落の構造がいくつも確認されていて、当時の人々がここで長く暮らしていたことがはっきりと見て取れる。出土した遺物も実に幅広い。縄文時代の土器をはじめとして、弥生時代の土器、古墳時代や奈良時代・平安時代に主流だった土師器(はじき)や須恵器(すえき)も数多く出土している。さらに石で作られた矢じり(石鏃)や磨製石斧、装飾品の管玉や耳環、滑石で作られたヒスイの模造品、さらには平安から鎌倉期の古銭まで見つかっている。こうした遺物の多様性は、この場所が単なる集落ではなく、交易や交流の拠点としても機能していた可能性を示している。また10世紀から12世紀(平安時代末期から鎌倉時代初期)頃の製塩土器が大量に出土していることも重要だ。製塩用の炉跡自体はここでは見つかっていないため、この場所は実際に塩を煮詰める場所ではなく、近隣の塩田で作られた塩を運び込み、何らかの仕上げ加工や保存を行っていたのだろうと推測されている。この時代の北陸では、塩の生産は貴重な産業であり、三木A遺跡がその重要な中継地点として機能していたことは十分あり得る話だ。さらに広い視点で見ると、この三木A遺跡だけでなく、近くには三木B遺跡や三木C遺跡といった似たような時代の遺跡が並んでいる。三木B遺跡と三木C遺跡は1970年代に北陸自動車道の建設に伴って調査された遺跡で、やはり弥生時代から中世にかけての遺物が見つかっている。これらを合わせて考えると、この三木町一帯が古代から中世まで長期間にわたり、多くの人々が定住した地域だったということがわかる。また近くには古墳時代の遺跡として有名な三木古墳群もある。ここには5~6世紀頃に作られたと考えられるいくつかの円墳と方墳があり、なかでも「上皇古墳」と呼ばれる1号墳からは埴輪片や金環などが出土している。三木古墳群が近くにあることで、この場所が単なる村落ではなく、有力者が存在した重要な地域だったことを裏付けているとも考えられる。一方で、三木A遺跡そのものに直接結びついた民話や伝説などは伝わっていない。つまり、この遺跡の歴史は完全に考古学の調査成果に基づいて語られているわけで、そうした意味でも学術的な価値の高い場所だと言えるだろう。北陸地方というと、どうしても加賀藩や前田家、あるいは九谷焼といった近世以降の話題に目が向きがちだが、こうした三木A遺跡のような場所が示してくれるのは、それよりずっと昔の、この地域に暮らした人々のリアルな営みだ。旧石器時代から近世に至るまでのさまざまな人々の暮らしが、ここには静かに、だが確実に積み重なっている。その歴史を掘り起こし、今に伝えていることにこそ、この遺跡の本当の魅力があるんじゃないかと思う。