玉諸神社で人生の道しるべ。
玉諸神社(甲斐國三宮)の特徴
日本武尊が水害防止のために祀った由緒ある神社です。
落ち着いた雰囲気の中で春の桜を楽しめるスポットです。
清浄に保たれた境内で静かなひとときを過ごせます。
御朱印は愛宕神社で頂けます赤い鳥居が印象に残ります。
玉諸神社(たまもろじんじゃ)。山梨県甲府市国玉町。式内社(小)論社、甲斐国三宮。旧県社。別名 国玉社。主祭神:國魂大神命資料によると、社伝では、もとは酒折宮北方の御室山山上に祀られていたとされる。その後、日本武尊が東征の帰路において水害防止として現在地に珠を埋め、その上に杉を植え依り代として国玉大神を祀った。すると洪水は鎮まったことから、のちに社が築かれたとされる。また、この杉は「玉室杉」と呼ばれたことから「玉諸」の名が起こったとされる。また、周辺の「国玉(くだま)」の地名は当社に由来している。また「甲斐国造」系図には、塩海足尼の子で国造二代の速彦宿禰が「玉緒神」を祭祀したとある。当社北方の御室山麓に拝殿跡とされる場所があり、拝殿跡が御室山遥拝所の性格を有すること・当社現在地から御室山が望めることから、元々御室山を祀ることに始まったと考えられている。御室山山中には数ヶ所の磐座が残るほか山麓には古墳・遺跡が多く残っていることからもその信仰がうかがわれる。その山頂には山宮が設けられ、かつては神幸が行われていたと伝えられる。また当社は甲斐国の三宮とされ、春の御幸祭では信玄堤近くに鎮座する三社神社(甲斐市竜王)・上石田の三社諏訪神社(甲府市上石田)まで一宮(笛吹市の浅間神社)・二宮(笛吹市の美和神社)とともに渡御する川除祭(水防祭)が古くから行われていた。式内・玉諸神社の論社の一つ。もう一つの論社は、甲州市(旧塩山市)の玉諸神社。そちらの玉は、御神体の水晶の玉だが、当社の玉は、国玉。魂とのこと。とあります。
大学院の合格発表をこちらの神社で見ました2時間前からこちらの神社で待機しておりましたなんとなく風や落ち葉が心強く、勇気づけてくれた記憶があります無事に学費全額免除特待生として採用されましたその後、大学院を成績優秀者卒業、日本学生支援機構第1種奨学金返済免除、婚約、長く交際していた方と結婚、憧れていた山王病院で出産とトントン拍子に人生が進みましたこちらの神社で合格発表を見ることができたときから私の人生の流れがよくなったなあとしみじみと思います私の人生の岐路となってくれた神社です感謝しても感謝しきれません山梨の帰省のタイミングでお礼参りに伺おうと思います清掃が行き届き清々しい神社です。
山梨県甲府市「玉緒神社」御祭神:國魂大神命創建年:?住所:山梨県甲府市国玉町1331甲斐国三ノ宮「玉緒神社」です。たまもろ神社。甲斐国は四ノ宮までありますので三と四を参拝させてもらいました。残りは笛吹市に鎮座する浅間神社と美和神社ですねー。これらはこれから。こちらのお祭りで、と言うより甲斐国全体のお祭り「大御幸祭」(おみゆきまつり)が良いみたいです♫一ノ宮「浅間神社」を出発し、二ノ宮「美和神社」を経由し最後にこの「玉緒神社」に御神輿がゴールと言う内容。四ノ宮・・・は?後には武田氏の庇護厚く祈願所に。武田氏滅亡と共に焼失しましたが徳川家により復興したと。◯に三が社紋なんですねー。舞殿が印象深いです♫
日本武尊が、甲府盆地の水害防止としてこの地に珠を埋め祀った。ご利益のある神社です。
祭神は大国玉大神(おおくにたまのかみ)です。大国玉大神は国の御魂の神です。大地の守護神です。社伝によると、日本武尊東征の折に、酒折の御室山に鎮祭したのがはじめと伝えられています。その後、現在地に遷座しました。式内・玉諸神社の論社の一つです。もう一つの論社は、甲州市塩山の玉諸神社です。日本武尊が東征の帰路において水害防止として現在地に珠を埋め、その上に杉を植え依り代として国玉大神を祀つりました。すると洪水は鎮まったことから、のちに社が築かれたとされます。また、この杉は「玉室杉」と呼ばれたことから「玉諸」の名が起こったと言われています。また、周辺の「国玉(くだま)」の地名は当社に由来しています。当社北方の御室山麓に拝殿跡とされる場所があり、拝殿跡が御室山遥拝所の性格を有すること・当社現在地から御室山が望めることから、元々御室山を祀ることに始まったと考えられています。
落ち着いた雰囲気のある神社です。甲斐国三宮玉諸神社由緒として神社名と鎮座由来について説明があり、詳しくわかります。
良い雰囲気である。管理は愛宕神社社務所らしい。そこで御朱印が受けられる。
三宮の風格のようなものを備えた佇まいで、境内は綺麗で明るく開放的で、安心して落ち着きます式内社の論社で、もう一つは同名の神社が甲州市にあります。
| 名前 |
玉諸神社(甲斐國三宮) |
|---|---|
| ジャンル |
|
| HP |
http://www.yamanashi-jinjacho.or.jp/intro/search/detail/1087 |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
|
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書により「玉緒神社」をしらべてみます江戸時代にかかれた「甲斐国志・神社の部」をみてみます。それをよむと「里の部」、「古跡の部」にも記述があると書かれています。が今回は「神社の部」をみていきます。____________❶【参考 甲斐国志 1814年】國玉神社国玉神社は国玉村に鎮座しています。幕府から認められた神領(朱印地)は61石3斗余り、境内の広さは2,600坪、居住地(黒印屋敷)は1,308坪に及びます。神社の記録によれば、祀られているのは大己貴命(おおなむちのみこと)です。成務天皇の時代(131年〜190年)にこの地に出現されたといわれています。神社の社域一帯は「玉緒(たまお)神社」とも呼ばれています。甲斐国(山梨県)の「三之宮」にあたり、古くから国司(地方官)が赴任した際に参拝する伝統ある神社です。武田信玄の時代には特に厚く信仰され、本殿や幣殿、玉垣、鳥居などが立派に造営されました。しかし、天正10年(1582年)の武田氏滅亡に際する戦火にかかり、境内はすべて焼き尽くされてしまいました。その翌年(天正11年)4月24日、徳川家康公によって、国玉・巨世(いさわ)・上河原・塩部・酒依の各地から計103貫文の社領が以前と同じように寄附されました。これにより社殿が再興され、お祭りや清掃などの儀式も、末永く昔の通りに行えるようになったのです。その後も歴代の領主によって、何度も建て替えや修復が行われてきたといいます。【行逢橋の話】行逢橋は、昔は長さが108間(約196メートル)もあり、そのため「大橋」とも呼ばれていました。現在はわずか4〜5間(約7〜9メートル)ほどの小さな橋になってしまいましたが、古い由緒があるため、今でも幕府(官)が管理し修理を行う「御普請所(ごふしんじょ)」となっています。地元の人々の言い伝えでは、「この行逢橋の上で都留郡の「猿橋」の話をしてはいけない」といわれています。逆に「猿橋の上でも「行逢橋」の話をしてはいけない」ともいわれています。その理由は、「あちら猿橋」はその「谷の深さ」を誇り、「こちら行逢橋」はその「長さ」を誇っているため、互いに競い合っているからでしょうか。あるいは、「猿(去る)」という言葉の響きが「逢う(行逢橋)」の正反対であるため、縁起を担いで「逢う場所で去る(猿)ことを忌み嫌う」という意味かもしれません。また、能や浄瑠璃の演目である『野宮(ののみや)』の一節をここでうたうと、必ず怪奇現象が起こると言い伝えられていますが、その理由は定かではありません。(詳細は、本書の「山川の部」や「古跡の部」をあわせて参照してください)【祭禮(さいれい)と行列】神社の祭礼は年に75回行われます。なかでも最大のお祭りは、夏と冬の2回行われる「神幸(御幸祭)」で、これは一之宮(浅間神社)や二之宮(美和神社)と同じ格式で行われます。ただし、この国玉神社の神様は、古くから「馬に乗って御幸(お出まし)になる」という例(しきたり)があります。幕府から賜る行列の装備は、以下の通り非常に豪華なものです。[行列]旗2本 騎馬2騎 長刀12振弓10張 鉄砲10挺 対の鎗4本鎗2本 台笠2本 立笠2本鞍皆具4 挟箱4人足150人 神馬乗馬等【特別な神事と祈祷】「桟敷場(さじきば)」で神様にお供えをする際、お供えの費用(幣料)として青銅一貫文が奉納されます。毎年3月と11月の最初の午(うま)の日には、板垣村にある御室山(おむろやま)の麓の「御前塚(おまえづか)」へと神幸が行われます。また、年に4回(1月・5月・9月・11月)の節目の時期には、前月の末日から7日間にわたって宮中にこもり、天下の安全を願う祈祷を行います。これを「七日籠(なのかご)の神事」と呼びます。これ以外の行事はすべて小規模な祭りです。【神社の宝物と古文書】神社の蔵(神庫)には、古くからの御朱印状などが保管されています。〇貫文で記された古い朱印状をはじめ、寛永19年(1642年)に石高で記されて以降、歴代将軍による御朱印状が合計8通あります。〇天正17年の伊奈熊蔵(徳川家臣)による黒印状、天正20年の加藤光泰(豊臣家臣)による黒印状、慶長8年の徳川四奉行による黒印状。〇寛文2年の「三社神幸(おみゆきさん)」の費用に関する証文や、甲府藩の役人の黒印状などがあります。【神主・磯部家のはなし】神主である「磯部隼人(いそべ はやと)」の家の記録には、次のように記されています。「磯部」はもともと苗字でしたが、後に氏族となりました。中世に「河内」という者が「武田信虎公」に親しく仕え、弓術の達人でした。信玄公の時代にも何度も軍に従って功績を挙げ、「龍淵斎(りゅうえんさい)」と名乗りました。しかし、勝頼公の代になり、長篠の戦いで戦死してしまいます。その息子である「二郎三郎」は、天正10年(1582年)の動乱(天正壬午の乱)の際、わずか15歳で北山(甲府北部の山間地)へ避難し身を隠しました。その際、織田軍の先鋒が乱入して神社に火を放ったため、古い古文書や宝物はすべて焼き尽くされてしまったといいます。「二郎三郎」は後に「刑部正元(ぎょうぶ まさもと)」と改名し、それから数代を経て現在の神主の「磯部隼人(はやと)」に至ります。【主な施設】〇[本殿]〇[幣殿]〇[拝殿]〇[参籠所]〇[玉垣]〇[御供所]〇[勧請所]〇[石玉垣]〇[鳥居]〇[神池]鳥居の内側の東西にあります。西側の池には築山があり、池のほとりには紫藤(フジ)が植えられています。花の時期には、それを見るための遊客で大変賑わいます。〇[御手洗川(みたらしがわ)]鳥居の前を流れています。〇[馬場(ばば)]神社の東側にあります。〇[玉の井(たまのい)]神社の南にあり、除地(免税地)が6坪余りあります。〇[玉杉(たますぎ)の祠]:神社の南約110メートル(1町余)にあります。ここは「甲斐国の中心」とされ、神様が鎮座した際に国の魂を祀り、目印として杉を植えたと伝えられています。古い神木は枯れてしまいましたが、今も「玉杉」と呼ばれています。夏と冬の2回行われる神事では、12の神社の神輿がここに安置されます。〇[一の鳥居跡]南へ約900メートル(8町余)の場所にあります。現在は公田となり「御前塚」と呼ばれていますが、その塚は今も残っています。〇[東西の標木(しるべぎ)]東は約330メートル(3町余)、西は約220メートル(2町余)の濁川の西岸、板垣村との境にあり「巡り木」と呼ばれています。〇[行逢橋(ゆきあいばし)と五条天神祠]行逢橋(ゆきあいばし)のそばには、五条天神の祠(ほこら)があります。濁川の東岸に位置しており、除地(免税地)として40坪余りの広さがあります。古くからこの場所は「行逢橋の森」としてその名が遠方まで知れ渡っていたと、地元の人々の言い伝えに残っています。また、古歌にも詠まれています(「甲斐名所和歌類抄」に載っていますが、作者は不明です)。「行逢(ゆきあ)はしの 森の木陰(こかげ)に 一夜(ひとよ)寝ん さぞつらからん あすの猿橋(さるはし)」(和歌の意訳)「今夜はこの行逢橋の森の木陰で、一夜を明かすことにしましょう。ここで体を休めておかなければ、(長旅の疲れで)明日、大月の険しい猿橋を越えるのがさぞかし辛くなってしまうでしょうから」