山中腹から望む、美しき永野城。
隈部氏館跡(永野城跡)の特徴
山中腹に位置し、素晴らしい見晴らしを楽しめる場所です。
中世の城館跡が巧みに再現され、歴史を体感できるスポットです。
江戸時代からの遊山地として、訪れる価値のある魅力があります。
石垣、堀切、庭園跡など遺構は少なめですが、城跡から見おろす景色が素晴らしい!
山鹿市菊鹿町上永野にあった館跡です。国指定史跡になっています。石垣の高さは、1.5〜2メートルあるようです。他に空堀や馬屋跡があります。館の有った場所は、神社の社殿になっています。
土塁、石垣、虎口など良く残っている。
菊池氏の三家老の一家で、菊池氏没落後に菊池・山鹿地域を支配した隈部氏の館跡です。何故こんな高いところに?と思うくらいの高所にあります。国史跡になったおかげか、普通に車で登れ、駐車場・トイレ完備です。高所にあったお陰で、遺構もほぼ完存しており、熊本県下ではあまり類例の少ない中世庭園も検出されております。石垣も素晴らしく、戦国末期の肥後国人一揆(1587)で滅んだ隈部氏の威勢を感じることができます。とはいえ、隈部氏は菊池氏没落後に龍造寺氏と組んで、同じ三家老の赤星氏を追って、菊池本城であった守山城を占拠するとそちらに移っている(1578)ので、その頃までの在城と思われます。江戸時代末期に熊本藩主細川氏が跡を見学したという記録もあるので、江戸時代から遺跡の認識があり、それでも大切にされてきたのでしょう。某SRGでは、おかしな顔グラフィックでのみ有名な隈部親永ですが、地元では郷土の英雄として大切にされているようです。駐車場からさらに上に登ると隈部氏累代のお墓も残っています。
もっと多くの石垣があったのでしょうか。夢が膨らみます。
山の中腹にあり、見晴らしは良いです。江戸時代に滅亡したらしいですが、同じ様に景色を眺めていたのでしょうね。晴天の時には雲仙方面まで見渡す事が出来るみたいです。生憎の曇り空だったので雲仙までは見る事が出来ませんでした。資料館でもあれば、どれだけの規模の建物かが分かると思います。景色が良い場所なので、一部建物を再建してカフェスペースなど作れば人は来ると思います。桜が少しずつ咲いてました。桜が満開すると綺麗だと思います。お勧めです。人もあまり来ないので静かで良いですよ。
山稜を背に南に菊池平野を臨むかなり高さに位置します。麓の集落までのかなり距離があります。居館跡に立ち、庭園を眺め心んをはせるにはいい場です。PS 駐車場やトイレもよく管理されています。
{2020年時の口コミに少し補足を入れました)隈部氏は赤星氏・城氏と並ぶ菊池三家老のひとつで元寇の少し前にこの周辺に入植し菊池氏に"隈部"の姓をもらい忠誠を従ったとされる。南北朝時代に南朝方として活躍した菊池氏はその後衰退し三家老が力を持つようになる。最終的に菊池氏は滅亡し肥後北部は三家老を中心に分裂しそれぞれが争うようになっていた。1559年に隈部親永は赤星氏を合勢川の戦いで破り、赤星氏を追放し菊池地域の実質的な支配者となった。その後、隈部親永は菊池本城に移るのだが、移るまでの居館がこの隈部館だったようだ。隈部親永の支配は山本や山鹿にも及び、大友・龍造寺・島津に囲まれながらも生き残り、豊臣秀吉の九州征伐の頃には4万石近くを有する大名であったとされる。しかし肥後統治に豊臣秀吉が派遣した佐々成政の検地に隈部親永は反抗。これをキッカケに肥後の国衆達が蜂起し肥後国衆一揆が起こった。隈部親永は隈府城(※隈部館ではない)に籠城するも佐々成政に攻められ落城する。しかし山鹿の城村城に逃れ、子の隈部親泰と共に籠城した。最終的に一揆は鎮圧され、親永は柳川の立花宗茂預かりとなり放し討ちにて亡くなった(死に方は諸説有)。柳川の黒門橋の脇には「黒門前戦場」の石碑と六地蔵が残っている。合勢川の戦いがあったであろう地(横枕)や内空閑氏のいた国見山もここから見渡せた。クチコミで「熊本の"熊"と関わりがあるのか」と書いている方がいるが、・隈部氏は菊池氏から隈部の姓をもらった・菊池市の中心街は隈部(くまべ)と呼ばれておりそれが戦国時代頃に「隈府(くまふ→後に わいふ)」と変わっている。・加藤清正が熊本城を築城する前に、すぐ近くに菊池氏の家臣の1人である鹿子木寂心の築城した隈本城が存在していた(加藤清正が隈を熊に改名)。これらの話から菊池氏にとって「隈」は特別な意味があったようでそれが回り回って今の熊本の名前に繋がっているんじゃないかと考える(確証はない)。
別名永野城、堀切、土塁、虎口他、中世の城館跡が上手に再現されています(礎石だけで建屋はないけれど)物見も兼ねていたせいか、見晴らしもよく、江戸時代から遊山の場所として知られていたのも納得できます。少々山道をのぼったところにあります。城郭好きなら見どころは多いかと思われます。蛇足だけど、過去の信長の野望のゲームで顔グラで口をあけて面白い顔で表現されてた「隈部親永」はここの城主。えっと、隈部は現在の山鹿郡菊鹿町から菊池城のあるあたり一帯の地名。菊池氏が熊本(当時は隈本)を治めるためにおいたこのあたりを「隈部府」と呼び、ここあたりを本拠とし、このあたり(隈部館北東1kmの米山城あたり)に本拠のあった宇野親治に菊池武房がその地名から隈部姓を与えたのが隈部氏のはじまりとされます。
| 名前 |
隈部氏館跡(永野城跡) |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0968-43-1651 |
| 営業時間 |
[土日月火水木金] 24時間営業 |
| HP |
https://www.city.yamaga.kumamoto.jp/www/contents/1400116794221/index.html |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
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2025(令和7)年5月10日(土曜日)に訪問。車で登ってもかなりの距離を登ります。かなりの高所に建てられた城郭跡です。肥後国人一揆まで隆盛を誇った隈部氏の居所です。城郭跡だけでなく、馬屋跡や空堀も綺麗に残っています。敷地内に隈部神社が建立されていました。屋敷を見下ろす館跡の更に上に、隈部親永一族の墓所があります。肥後国人一揆平定後、隈部氏17代・親永ら80数余名は二組に分けられ、親永と次男・親房は柳川の立花家預りとなりました。しかし、立花宗茂が親永らを半年間与えた宿舎で過ごさせたことについて立花家家臣から文句が出始め、豊臣秀吉の命により天正16(1588)年5月27日切腹の覚悟で柳川・黒門に着いた親永ら12名を抜刀した武士達が襲い、親永らは無抵抗のまま斬り捨てられました。遺骨は長久寺に預けられましたが、柳川・梅岳山福厳寺住職らの許しを得て、親永の分骨と、隈部氏初代・成真から七代・真博までの墓塔をこの墓所へ移転しました。地元の方が綺麗に整備しており、雑草もなく綺麗です。