歴史の息吹感じる散策。
増尾城跡の特徴
増尾城跡は公園として整備され、遺構が良好に残っています。
東武増尾駅からアクセス良好で、登城が簡単にできます。
鬱蒼とした森で手入れもされており、散策に適した場所です。
戦国時代、この辺り一帯を治めていた小金城の高城家の出城だと伝えられています。高城家は千葉家の分家筋で後に千葉ともども小田原北条家の傘下に入りましたが、豊臣秀吉の小田原攻めの時に北条とともに滅びました。本丸(本郭)・二の丸(副郭)と2つしか郭もなくあまり堅固な構えでもなく、櫓も二の丸入口に一つだけで江戸時代で言えば陣屋か代官所レベルのものでしょう。
芝浦工業大学中・高等学校の西隣の小高い丘の上にある連郭式平山城。舌状台地を最大限に利用しているが、空堀、土塁など人工の遺構はよく残っている。「増尾」とか「増山」という地名の所にある城跡はたいていは舌状台地上にある。戦国時代に千葉氏に属した国衆(国人)高城氏の家臣が居住したというが、国衆の家臣の城としては規模が大きすぎる。また、史料的にも係争地として見えない地になぜこれだけの城を築く必要性があったのかも疑問。縄張りとしては主郭、副郭、虎口などの構造がよく分かる貴重な城跡である。
結構広いです。近くの人が利用する風。電車で行くほどではないかと。自家用車で散歩コース遠征の方は、駐車場の下調べを。樹木が高いので夏は涼しいかもしれません。特に見どころありません。バーベキューOK(要事前申請)みたいです。
公園として整備されているが比較的遺構の残りはよく主郭周りの土塁や虎口をよく確認できた住宅地の中の公園だが城跡の辺りは人も少なく落ち着いて見学できる。
直線連郭を土塁と横堀で囲み、その下に腰郭も見られる中世城郭。郭間には堀切も見られる。戦国時代に小金城主である高城氏の家臣、平川若狭守の居城と伝わり街道を守る関所的な役割だった城だと考えられます。ニッカ通り側が副郭で駐車場脇の大地先端部が櫓台跡。主郭は中学校側で主郭下に腰郭があります。ニッカ通り側の駐車場は満車状態が多いので増尾城址総合公園の駐車場に車を停めて、散歩がてら歩いて行くのがオススメ。駐車場から入り、中学校側に降りるルートを通りましょう。総合公園内は行き止まりで袋小路です。総合公園と園内歩道が繋がっているのでランナーや散歩をする方が多く、憩いの場としても利用されながらしっかり遺構も目にする事が出来ます。
公園の一部として整備された土の城ですが案内板が設置されて見学しやすく駐車場もあります。
森です。ですが、森の中を歩けるように整備されているので、気軽にお散歩できます。水が湧き出ているところもあり、いろんな生き物がいるようです。のんびりできるのでオススメです。駐車場は何ヶ所かにありました。
東武 増尾駅から10分程度で登城でき、アクセスは良好です。公園として整備され遺構はしっかり残っています。特に土塁に囲まれた本丸跡は古城の雰囲気に溢れています。程好い高低差のためジョギングの好適地なのか驚くほど多くのランナーが周回していました。緑も豊かで、大きな駐車場もありました。
ニッカ通り側の公園入口の階段を上がると目の前に櫓台跡が堀と共にドーンと現れます。この櫓台あるところが副郭になり5mほどの高低差があります。そこから堀底道を左に沿って回っていき、東側の端から主郭へとあがりました。主郭は土塁に囲まれ副郭との繋ぎ目には立派な虎口があり、そこを抜けると主郭の倍以上の広さがある副郭にでます。副郭も土塁に囲まれています。この土塁の上には上ることができ、高さを感じることができます。副郭に城址碑と説明板があり、最初に見た櫓台跡もあり、その横には堀へ下りる虎口もありました。入口を右に行けばこの虎口から副郭に入ることになります。規模は大きくはないですが、堀や土塁なども確認でき、楽しめました。
| 名前 |
増尾城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[水木金土日月火] 24時間営業 |
| HP | |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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周辺のオススメ
以前からよく訪れる場所のひとつです。昔は電話ボックストイレも駐車場内にあったので便利でした。軽い散策におすすめです|ू・ω・` )【増尾城の全容】◾︎立地と地形増尾城は、千葉県柏市増尾に位置する中世の平山城です。増尾集落から北東に突き出した、標高約20メートルの半島状の台地の上に築かれました。南側の崖下には手賀沼に流れ込む大津川の支流が流れ、城のまわりは深い谷と険しい崖に囲まれています。この地形により、天然の要害として機能していました。◾︎築城の背景と城主築城時期や築城主の詳細は不明ですが、土塁や空堀の構造に複数の「横矢(側面攻撃用の仕組み)」が掛けられていることから、戦国期の城とみられています。* 相馬氏との関わり: 鎌倉時代から南北朝時代にかけて、この一帯は「相馬御厨」と呼ばれる伊勢神宮の荘園であり、千葉一族の相馬氏が領有していました。* 小金城主との関係: 16世紀には小金城(現在の松戸市)と関連する城であったと推測されています。* 具体的な城主: 『東葛飾郡誌』には、小金城主の高城氏の家臣である平川若狭守が城主であったと記されています。◾︎構造と軍事的な特徴城は「一の郭」と「二の郭」が並ぶ連郭式の構造で、遺構が非常に良好な状態で残っています。* 櫓台: 南西隅には大きな櫓台があり、ここには虎口(出入り口)を見張る櫓があったと推測されています。* 連携: この櫓台からは、南にある幸谷城がよく見えました。幸谷城側にも増尾城を臨む物見台があり、両城は互いに連携していました。◾︎交通の要所としての役割増尾城は、水陸両方の交通を支配する重要な場所にありました。* 水上交通: 大津川沿いにある幸谷城、戸張城、佐津間城などとともに、手賀沼へと続く水上交通を監視する役割を果たしていました。* 陸上交通: 近世まで続く街道が城下で交差しており、陸上交通の要衝でもありました。◾︎信仰と文化城の付近には今も、千葉氏一族の信仰のシンボルである「妙見さま」が祀られています。また、御城印には相馬氏ゆかりの「繋ぎ馬」や、千葉氏系の家紋「九曜」がデザインされています。発掘調査では、15世紀から16世紀の陶磁器や中国製の銭なども見つかっており、領主の生活拠点でもありました。◾︎廃城と公園整備1590年の小田原征伐に伴い、北条方の城として役割を終え廃城になったと考えられています。その後、1987年(昭和62年)に「増尾城址公園」として整備され、現在は市民の憩いの場となっています。