成東駅から徒歩25分くらい。
藪が凄くて道も途中で無くなるしよくわかりませんでした多分冬とかに行かないと駄目かもしれませんもっと手入れされてると思ってたけど。
成東駅から徒歩25分くらい。
2019年台風による倒木でみづらいです。
11月ですがまだ藪ぼーぼーで詳細がわかりませんでしたが鋭い堀などの片鱗はみれました。
また機会があれば再チャレンジします。
津辺城の歴史は必ずしも明確ではありませんが、伝承では鎌倉時代に千葉氏の配下だった石井将監の居城だったとされます。
戦国時代末期には坂田城の城番を務めた井田氏の家臣白桝和泉守が津辺城を守っていたということです。
成東駅から15分ほど歩き坂道を登ると津辺城のある森へ入る道がある。
舗装されていますが城跡の一部に浄水施設が造られたときにできた道なのでしょう。
舗装路が途絶えたあとは草木を掻き分けて進むしかありません。
三の郭は藪も少なく歩きやすいが取り立てて見るべきものはないので先へ進みます。
闇雲に歩いていると空堀があり横矢を利かせた土橋を渡ると二の郭へ着きました。
この郭はとても広く杉林となっているおかげで多少は歩きやすいです。
真ん中あたりの杉の根元に妙見菩薩があり主郭にも妙見宮の跡があったというので起源は千葉氏の時代に求めて良いのかもしれませんが、工夫された虎口と深い空堀は戦国時代末期の城であることを物語っています。
埋もれ行く城址 津辺城址 城址は、JR総武本線成東駅の北方約1.5Kmの津辺台地の東端に位置している。
築城者は不明であるが、その遺構形態から見て戦国時代末期のものと推定され、天正年間には坂田城主である上総井田氏の支配下にあり、台地一帯は、その重臣の白桝和泉守が城将であったと伝承される(上総国誌)。
城址のある地形分類ⅢA₁に属するローム台地(上位)であり、土質は成田層群の地蔵堂層で、比較的硬いので東側は急崖を保っている。
台地は日吉神社の辺りで南北からの浸蝕谷によって鞍部となり、また大堀切によって城址のある台地は、独立丘陵の形状を成している。
遺構は標高20m~35mの台上に展開する多郭雑形(三郭)で、空堀・土塁の一部を除いて破損・埋没し、第Ⅲ郭の字城山は町営水道(当時)の貯水池工事の為に南半分が破壊されている。
この遺構の空堀は、虎口の両側とも鉤形あるいはL字形に屈曲しているのが特徴で、折邪と同様に、敵の進入に対して多面的な射撃を可能にしている。
第Ⅱ郭の虎口は右側の土壇①と鉤形空堀②で守備され、特に②の部分は幅7m、深さ5mと大規模で、その先端部は10mにも及んでいる。
第Ⅱ郭の字要害を経て主郭部へ進むと③の地点に至るが、この遺構は鉤形・コの字形の空堀が結合して「桝形」の構造をしており、戦国時代末期の築城形態を如実に示している。
第Ⅰ郭への侵入は幅の狭い土橋によるしかなく、その前面には妙見台(独立点41m)の土壇④があり、遺構中で最も多面的な射撃の基地を作りだしている。
主郭部の東方は急崖であり、南側はやや緩傾斜ではあるが、ここには土盛りの一部が残存しており、比高約5mの土塁が取り囲んでいたものと考えられる。
また、④地点の東側の空堀は深さ約10mにも及び、その先端部は標高30mの急崖に出るが、現在でも羊腸路が下方へ通じており、⑥の字根古谷の山麓方面へと至っている。
また、外郭部には⑤の津辺屋敷や虚空蔵址(推定持仏郭)など、台上畑地の周縁を取り囲む土塁の址線は、坂田城址(横芝町)と同様に「城下町」的地割りの原初的形態を想定することが可能である。
また台地の麓には境川(通称津辺川)が流れ、外堀的な役割を果たしている。
ともあれ、この城址は小規模ながら全山を城域としており、空堀の鉤形の屈曲や桝形的構造あるいは緩傾斜部を守護する土塁線など、まったく戦国時代の「守りの城」としての特徴をよく保存しており、その保全対策が望まれる遺跡の一つである。
引用:日本城郭大系6 千葉・神奈川。
どうせ何も残っていなかったさ、期待通りだよ、ションベンかけて帰ってやった。
名前 |
津辺城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.4 |
遺構は素晴らしいのですが、倒木と藪がすごくて。