赤人塚、ポツンと質素だが、風情を感じる。
赤人塚江戸時代中期、(宝永6年12月9日(1710年1月8日)~明和6年3月13日(1769年4月19日))の地元の儒学者、中村国香の著した紀行文『房総志料』には、次のように記されている。
一、山邊郡の人かたりしは、田中村(東鏡に接す。
)と云処の道の側に、古塚あり。
相傳、山邊赤人塚是也と。
塚のまはりは田也。
塚上に荊叢繁茂し、いぼたといふ小樹多生す。
寛文の比にや、彼土の民、塚を發、朽たる木像一軀を掘出す。
其体、甚異相。
土人素赤人の像といふ事しらず。
法興寺といふ日蓮派の寺の後室に投ず。
(法興寺東十ヶ寺の其一。
寺領十八石。
山號を宝珠山と云。
)又、其比、俗工ありて、古像を摸せし自刻の新像同じく後室にありしを、元祿の比まで、寺主を始、土人までも、たゞ閻羅の像とのみこゝろへしと。
其比、下總櫻邊より台家の儈來、此像を見、閻羅は宗派に於て不用のもの也とて、一軀を乞て歸る。
彼徒のならひ、他佛はなきが如く信ぜぬ事なれば、乞に任せぬ。
此時、彼儈の乞去りしは、眞の赤人の像にして、今、後堂に存せるものは俗工の摸作せる処のもの也。
享保中、密に台命ありて後堂に祕封せしむ。
予が友人某、近比、彼土に至りて、主儈に乞て彼像を親見せしに、全く赤人の像などいふべきものにはあらず。
彫跡新健にして土食せず。
其工朴拙。
思ふに、眞像年代久しく土中に埋、面貌朽敗せるを、俗工隨て摸せしものなれば、却て閻羅の相に似たるなるべし。
殊に閻羅の像の魁顔・瞋目・大鼻・巨口の相にてもなしと云り。
さも有べき事也。
今に櫻の人、彼像に對し幽迷の津梁をもとむるは、笑べきの甚しき事也。
一、山邊赤人は上總國山邊郡の人也。
彼地にさゝぐりとて、長さ一尺ばかりなるが栗のなると、古今榮雅抄にみえたり。
按に、此もの筑紫宰府栗といへるものなりと人のかたれり。
土俗三春栗といふ。
實大さ小指頭の如し。
彼地邊の山中最多し。
山人刈て薪とす。
再苗を生ずるもの又實を着。
三春栗とはいへど二春にしてやむ。
爾雅所載栭栗、本艸の茅栗これなり。
近此、京都愛賞家の求に應ずと。
※注 カッコ付()は、古文中の注釈法興寺は、此れより北約300mに在る法光寺の事だろう。
そこに、ここから出土した木像があるらしい。
古文は読みにくいが、なんとなく書かれていることは分かる。
本物は持ち去られ、今あるのは偽物ということか?。
山邊赤人は地元出身と断言しているが、その後郷土史家によると、山邊は正しくは山部であり、当地出身説は偽りであるという。
さて、真実はいかに。
ちなみに、滋賀県には、赤人寺という寺院があるようだ。
昔からある文化財みたいなもの。
昔からあります。
名前 |
赤人塚 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.3 |
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赤人塚、ポツンと質素だが、風情を感じる。