きんねんさまと呼ばれていたそうです。
土気城址ひまわりの郷 / / .
今は施設になっている場所が城跡らしいです。
広大な曲輪だっただろう事は分かります。
施設入口にモアイ像が並んでいるのは何故か。
城の跡がない。
今は、施設。
その前は、JALの研修センター。
2010年7月17日土気城を守る会主催の土気城見学に参加しました。
その時の写真をアップします。
石碑は、撮れませんでした。
土気城跡…残念ながら現在は老人施設になっています。
(--;)💦施設内になる為、どうしても観たい方は施設に一言、断ってから立ち入りをお願いします。
との…事でした(--;)案内板も何も、施設入り口には有りませんので、注意してください。
Google Mapのピンにあるのは掲載した石碑だけ切通しが目当てなら、ここから少し南下した貴船大明神の奥にある道祖神と案内板を目指そう大胆に切り裂かれた丘陵と今にも剥がれ落ちてきそうな樹木は迫力がある。
土気城の歴史 土気城の起源は、伝承によると、奈良時代の武人「大野東人(生年不詳~天平14年11月2日(742年12月7日))」が築城したことから始まるという。
北方に住む蝦夷を制するため、戦略上重要な城(柵)であったという。
現在の地理を考慮すると、この地に前線基地を置く事は、房総半島の中程に位置し、また、広域的に見れば、南方は半島の陸地の果てとなり、閉塞感を覚える地勢であることもあって、戦略的に不利な様に思える。
しかし実は、当時の東海道は、三浦半島から富津へ渡る海上を道とし、上総~下総香取~常陸鹿島と通されていた事から、東北への進軍の中継地点に当たる為、不思議はないのである。
(地図上で上総・下総が京から見て上下逆の様に思えるのは、この為である) 室町時代の中頃、この地を治めていたのは、大関城を本拠とする畠山重康(畠山重忠の末裔と伝わる)で、勢力を西方に広げていた。
長享二年(1488年)中野城主酒井定隆が、土気城に攻め寄せ、城を奪取した。
それ以来、酒井氏の支配が、戦国時代末期の小田原北条氏滅亡まで続いた。
上総と下総の国境付近に位置するため、戦乱の続く時代にあっては、常に緊張状態にあったという。
桜も満開を過ぎ、散り際が綺麗です🎵
6月下旬夕方に散策本丸と二丸の間を歩いてみたが感じ良く廃れていた。
地元では貴船城とも称され、きんねんさまと呼ばれていたそうです。
名前 |
土気城址ひまわりの郷 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
3.2 |
現在は老人ホームになってましたが、遺構も少しありましたよ~