かなり山を下って行った少し寂しい場所にあるお墓です...
お城からは結構な距離を下っていきます。
八犬伝のモデルになった8人の志士が祀られいます。
こじんまりとしたお墓でしした。
帰りは登るのが嫌だったので駐車場の方へ抜けました。
八遺臣の墓〒294-0036 千葉県館山市館山607-2 ハワイアンロコホームハナホウの裏山城山公園には史跡がいくつかあります。
そのひとつが、城山の東南山麓の崖際に、里見家の家臣八名の遺骨を埋葬したと伝える墓です。
館山市の案内板に経緯(いきさつ)が詳しく書かれています。
近年、この八人の遺臣が「八犬伝』に登場する八犬士のモデルではないかとも、伝説自体が『八犬伝』の人気をもとにして後から作り上げられたものではないか、という説もあるそうなのは面白いなと思います。
●八遺臣の墓大坂城の豊臣方との決戦を目前にした徳川幕府は、関東御府内外様大名取潰しの策を回らせた。
この策により改易を命ぜられ、伯耆の倉吉に移された房総里見氏十代忠義は、憂悶のうちに元和八年(一六二二)二十九才で倉吉在の堀村に卒した。
この悲運の主君に従って殉死した八人の家臣は、その氏名は不詳であるが、四字の戒名の上と下に必ず心・賢の二字が配されているのは、何を暗示しているのであろうか。
慈恩院に伝えられた話によると、房州にあった里見氏の遺臣が、主君忠義と八人の殉死者の遺骨を房州に持帰るべく漁師の姿に身をやつして、遥々倉吉の大岳院の墓から蛸壺に分骨して帰り、ひそかに館山城の南麗に埋めたのが、この八遺臣の墓であるという。
この八人の殉死者が、八犬士のモデルであるとも伝られている。
平成三年二月、館山市。
裏の崖からでも、表ルートでもどちらもかなりの藪の中にあるお墓。
そもそも城の一画に遺骨をひっそり埋めること自体がなかなか難しいだろうし、曲輪の寺とか神社とかも協力してくれたのかなあ、、、、とか、鬱蒼としたところにあるからこそ想像も湧き立てられる。
これも文学になってなかったらあんまり有名にもなってなかったんだろうなあ、、、、、と。
城山公園の一番奥の少し寂しい所にあるので結構歩きます。
里見八犬伝の元ネタらしい。
名前 |
八遺臣の墓 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0470-22-8854 |
住所 |
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関連サイト |
https://www.city.tateyama.chiba.jp/tosikeikaku/page000904.html |
評価 |
4.1 |
▼こちらは、館山城の裏側、かなり山を下って行った少し寂しい場所にあるお墓です。
▼ところが、このお墓こそ後に日本で知らない人が居ないくらい有名になる「南総里見八犬伝」の基となるのです。
▼戦国時代を生き抜いた里見氏、家康に服従するもやはり色々と不都合があったのでしょう。
というより、江戸に近い関東圏から外様である旧戦国大名は除外しておきたいという江戸幕府の不文律の餌食だったのでしょうね。
伯耆国(今の鳥取県)に国替えになります。
▼国替まもなく、里見家は断絶するのです。
当時の当主は、初代・里見義実から数えて10代目・里見忠義(ただよし)。
弱冠29歳の彼には子が無いということでお家断絶。
そして、忠義の死に際して、家を継続するために東奔西走した8人の家臣たちも殉死するのです。
▼後日、伯耆国から離れたここ館山にあってこの話を聞いた里見家の旧家臣たち、漁師姿で伯耆の国まで出向き、殉死した8人の遺臣の骨を蛸壺に入れて持ち帰り、里見家の由緒の深い、この館山城の端に埋めたのです。
▼この話を房総の郷土史家が、当時、剛弓の為朝伝説を書いた「椿説弓張月」が売れまくっていた滝澤馬琴に話をしたところ、「それは面白いし、忠のある話。
是非、これから書く戯作(小説)の題材にさせて欲しい。
」と意気投合して下戸の馬琴には珍しく、郷土史家としこたま飲んで盛り上がったそうです。
▼翌日二日酔いで頭がガンガンする馬琴。
二日酔いが解消し、郷土史家との約束を思い出そうとするのですが、「南総とか、8人の頼もしくも忠ある家臣がいたとか言っていたが、さっぱり内容を覚えておらん。
今更聞きなおすのも馬琴の名折れ。
ええい、ままよ。
8人の剣士だったとしよう。
でも剣士でないかもしれないから、音が同じ犬士ということでどうだ!」(実際、作品内では盛んに「八犬士」という言葉が使われます。
)▼これが、超有名な戯作「南総里見八犬伝」が生まれた背景です。
▼ちなみに馬琴はこの小説を48歳から76歳の足掛け28年間も書き続けています。