康平6年(1063年)前八幡太郎義家の父源頼義公の...
寛延元年十一月吉日製。
本殿左手にいます。
三猿は見えない。
板碑型です。
狛犬は昭和十年十二月吉日製。
石工小俣庄右エ門の名が見えます。
小さな神社背後に古墳。
東急大井町線 尾山台駅から環八跨いで13分の、世田谷区尾山台の台地に鎮座する八幡さま『宇佐神社』さん。
尾山台の斜面に、立派な石で積み上げた台地の上に建立されていて、石垣はまるで城郭のように重層。
境内には、「八幡塚」と呼ばれる古墳がある。
●社名:宇佐神社●住所: 東京都世田谷区尾山台2-11-3●御祭神:・誉田別命(第15代応神天皇、八幡神)●由来:・1051年、源頼義が前九年の役に出征する際、当地で勝利を誓い、そして成就したため、凱旋の途中で当地に立ち寄り『八幡社』創建。
・1063年、『宇佐神社』に改称。
●御朱印:・社務所にて初穂料300円にて書き置きの御朱印を拝領しました。
古墳ツアーで参拝。
裏手の八幡塚古墳は許可を得て拝観。
静かな神社でした。
静かな場所でした。
階段があります。
御朱印いただきました。
御朱印を頂戴しに参拝しました。
書き置きでした。
宇佐ということで、御祭神はホムダワケノミコト…つまり八幡神社です。
縁起は前九年の役の際、奥州に向かう源頼義が尾山に陣を敷いた際に瑞雲を見た。
その後奥州の安倍氏を攻略しての帰路、再び尾山を訪れた頼義がこの地に八幡神をお祀りしたのが始まり…なんだそうな。
すぐ近くにはかつての多摩川の入り江、籠谷戸が入り込み、そこは鎌倉幕府にとって大切な官港として鎌倉武士が常駐していたそうです。
因みにその籠谷戸を挟んで田園調布八幡神社もあり、源氏の氏神である八幡神で、鎌倉幕府の官港を守っていたんでしょうね、多分。
縁起には鎌倉幕府を開いた頼朝のご先祖様、頼義も絡んでくるし。
あと、多摩川沿いの国分寺崖線上に位置するので、こちらのお社の裏手にも当然古墳があったりします。
宇佐神社。
御祭神は応神天皇。
八幡塚古墳が裏手にあり雑木林が残っているため、都内の神社とは思えない雰囲気がある。
元禄3年(1699年)に書かれた御社宝「尾山八幡社縁起」によると、康平6年(1063年)前八幡太郎義家の父源頼義公の創建になるものである。
第70代後冷泉天皇の御代の永承6年に安倍頼時の子貞任宗が朝廷に無謀を起こした。
頼義公は朝廷に討伐を命ぜられ、京より武蔵の国に入り、ここ尾山の地に陣営を張った。
すると大空には白雲が8つに分かれてたなびき、その形が源氏の白旗のように見えたので大いに喜び、頼義公は源氏の氏神である八幡様に勝利の暁には、この地に必ず八幡社を建てることを誓い、蝦夷地に向かった。
戦いは9年に及び、ようやく康平5年(1062年)に安倍一族を平定し京に凱旋する道すがら、尾山の地に立ち寄った。
そして頼義公は先年の誓いにより八幡様をまつり、戦勝の報告をするとともに神に感謝したのであった。
これが宇佐神社の起こりである。
(由緒書きより)従って、大分県の宇佐神宮との所縁は無さそうである。
神社裏手の舌状台地には八幡塚古墳がある。
直径30メートル、高さ4.5メートルの円墳。
かつて墳頂の主体部から刀子形製模造品22個以上、直刀、袴帯金具、土器などが発見されている。
その規模と副葬品から、5世紀末~6世紀世紀前半の首長墓と見なされている。
御朱印あり。
小ぢんまりしたどこにでもありそうな神社ですが、御朱印頂けます。
丁寧な対応でまた行きたくなりました。
静かないい場所です☺
静で落ち着く感じです御朱印の対応も良かったです。
神社の裏あたりに古墳があるらしいが分からなかった。
何もなかったです。
父を癌で亡くして3ヶ月後、今度は母が癌と診断されました。
レントゲンにもデカい影がはっきりと写っていました。
藁をもすがる思いでお百度を踏みました。
2週間後の再検査で、影は完全に消えていました。
今でもあれは誤診ではなかったと思っています。
地元の神社 幼い頃よく遊んだな🎵
名前 |
宇佐神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
03-3702-0875 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.8 |
周辺のオススメ
![](./loading.gif)
境内は綺麗に整備されてました。
本殿の裏手には庚申塚がありました。