人々の憩いの場になっております。
聖武天皇時代に全国各地に造られた国分寺の中でも大規模な武蔵国分寺。
鎌倉時代に分倍河原の合戦(幕府軍vs新田義貞)で消失しましたが、その後義貞により寄進された「武蔵国分寺」が後継寺院として残っています。
ちなみに全国に国分寺は60余りありましたが、現在も地名(国分寺市)として残っているのは武蔵國だけだそうです。
住宅地や農地の真ん中に広大な野っ原が広がっています。
巨大な公園。
ところどころに看板や柱のマークがあり、武蔵国分寺の規模を感じることができます。
府中市の国府から北方約2㎞の地に「東山道武蔵路」を挟んだ東西に聖武天皇による「国分寺建立詔」により「僧寺」と「尼寺」が出土遺物や「漆紙文書」の年代観などから天平宝字年間(757~765)頃に建立されたと推定されている。
全国60余国に建立されました国分寺も所在地が不明な国もあることから同一地域に「僧寺」と「尼寺」が判明し遺構も良好に保存されていることから国の指定史跡になってから2022年でちょうど100年を迎えた。
国分寺としての規模も大きく、七重塔が建立されるなど壮大な寺だったとされるが、承和2年(835)に七重塔が落雷により焼失し、その10 年後、再建願が出て許可されたことが『続日本後紀』に記され、10 世紀前半頃には寺域区画溝が埋没し、徐々に衰退していった。
新田義貞と鎌倉幕府方による分倍河原の合戦(1333)により国分寺は焼失し、建武2年(1335)には義貞により薬師堂が再建されたと伝えられている。
国分寺市の由来の場所。
なのに街のはずれにひっそりある印象で趣がある。
子どもたちがめちゃくちゃ元気に遊んでた。
居住、就学、文化それぞれの環境がいい。
奈良時代に創建されたお寺ですが、今はその面影はほとんどなく、人々の憩いの場になっております。
所々に建物の構成や間取りを説明した案内板がございます。
辺りを見渡すと、結構な広さであり、長い歳月と多くの人力で建てられた立派なお寺であった事が想像されますね。
武蔵国分寺跡は、全国の国分寺跡と比べても規模が大きく、その歴史的重要性が認められており、国指定史跡に指定されているとのことです。
周囲に武蔵野のおもかげが残る。
散歩するのにいい。
散歩の途中に出くわしました。
国分寺って言いますが、国分寺駅辺りではなく、結構南の山の下の平地、この史跡辺りから国分寺の歴史が始まったんだなぁ…と感慨。
夕暮れ時に歴史の勉強と桜吹雪の歩き花見をするため、国分寺市の名前の由来となる武蔵国分寺跡に足を運びました。
コロナが無ければ、最高のピクニックスポットです。
子どもを連れて歴史遺産で遊んでいる御家族で溢れていました。
史蹟で遊ぶなんて最高の贅沢ですね♫
奈良時代の中頃、聖武天皇は仏の力で国を安定させるために、諸国に国分寺の建立を命じました。
武蔵国では、都と国府(現府中市内)を結ぶ古代官道「東山道武蔵路」沿いの東に僧寺、西に尼寺が計画的に配置されました。
武蔵国分寺跡は、全国の国分寺跡と比べても規模が大きく、その歴史的重要性はつとに認められており、大正11年に国指定史跡に指定されています。
西国分寺駅前の案内板を十分に確認して歩き始めたが、20分を過ぎても辺りは住宅街。
スマホのマップを見ると逆方向へ離れていることが分かった。
方向音痴を自覚しているので差程の驚きはないが、予定の変更は確実になった。
突然、小さな公園が現れ、古代の竪穴式住居跡との表示。
更に、伝鎌倉街道への案内標識があり、それを頼りに進むと、ジョギングをする人が行き交う小道に出た。
伝鎌倉街道である。
暫くすると、中央に三本の欅の大木のある草原、国分尼寺跡である。
その後は分かり易い標識もあり、順調に国分僧寺まで行き着けた。
隣国の国分寺に比べると壮大で、東国に置ける武蔵国の重要性が理解できた。
お鷹の道・真姿の池から西へ向かうと左側に広場がある。
金堂や講堂跡の礎石があるが、他にはなにもない。
なにもないことで開放的な空間が広がり気持ちも晴々する。
のんびり歩いていると、一匹のネコが近づいてきて、頭をなでるとお坐りする。
可愛いネ。
ネコもこんな場所にいると、のんびりするようです。
国分寺建立の由来は、天平時代(713年)聖武天皇によって諸国に国分寺が造られ、武蔵国では武蔵野段丘を背景にしたこの地が選ばれたことによる。
諸国に建立された国分寺の中でも最大級だったが、分倍河原の合戦で焼失したと言われています。
七重塔跡も含めて、荘大な寺院であったことが伺えます。
紺碧の空の下、心地良い風が吹いていた。
天平の風も、今日の風のように爽やかだったろうか…遠い昔に想いを馳せる。
武蔵国分寺の復元模型が、お鷹の道湧水園の資料館にあります。
七重の塔の模型もよく出来ています。
ぜひご覧ください。
「武蔵国分僧寺跡」の金堂基壇と講堂基壇を結ぶ堂間通路が見事です。
発掘された、古代、武蔵国分寺布目瓦を、びっしりと敷き詰め、千二百年前と同様に復元されました。
しかし、一部には、平成時代のレプリカ(複製品)が使用されています。
その説明文が一切ない為、見学者には、実物とレプリカの区別が全くつきません。
このように、なんの説明もなく、復元に、実物とレプリカをチャンポンで使用するのはご法度です。
わかりやすい説明文の掲示が必要です。
一方、「国分尼寺跡」の復元には「尼坊跡」の礎石70個が全てなくなっていた為、平成時代に多摩川の石で復元しました。
70個全ての石に、このことを記載した金属プレートを打ち込み、後世の人が間違えないようにしました。
すばらしい復元です。
遺跡の復元には、このような配慮が必要です。
立派な門です。
近くにこんな名所があるなんて!
原っぱに石が点在。
昔、ここに建物があったことに思いをふけります。
公園のようになっていて子供たちが遊んだり、のんびりとレジャーシートしいて休日を過ごす、、そんな風景がみられました。
いいですね!!
私の1押しの場所です💞散歩、ウォーキング、お花見、おしゃべりしながら過ごしたり、孫と思いきりボール⚽️を蹴りあいます。
近くにお鷹の道湧水に続く道のさんぽ、オタカフェで一休みして、国分寺駅南口の途中にあるカフェスローで、お食事するのもお勧めします💞
201904 お花見のいい場所だ。
人も多くないし、桜も多くて綺麗だし!おすすめ!
歴史散策によし。
湧水スポット、夏にはホタルを愛でる小川。
桜も申し分なく、四季を通して楽しめるエリアです。
まだまだ隠れた所が満載で新しい所を発見するのも楽しいでしょう。
散策にオススメです。
歴史的な跡が色々見られます。
春の桜、夏はすずかけ、秋は紅葉をめでることができます。
建物はないですが、いにしえの空気感を味わえます。
毎年桜の時期に行ってます。
たくさんの桜の木があり、お花見をしている方や近所の幼稚園・保育所から遊びに来られています満開時期に行くと桜の壮観な景色に心が癒やされ優しくなれます。
全国の国分寺の総本山の桜です。
今週末まで大丈夫です。
今はその跡地しかのこっていませんが、聖武天皇の、切なる思いで造られた国分寺、国分尼寺に思いをはせながら見るのも良いかもしれません。
かつては広大な敷地を有していた国分寺。
近くに資料館が二ヶ所あり職員さんが丁寧に説明してくれました。
かつては寺の柱を載せていた石が並んでいるだけでしたが、最近は空き地部分に遺構の位置をを示すアスファルト模様や柱や看板などが設置されたので、より具体的に当時の様子を想像できるようになりました。
市の積極的な働きに感謝です。
人懐っこい猫がたくさんいます。
猫の餌の放置はしないようにしましょう。
奈良時代、護国鎮護のため聖武天皇の詔により全国に建立された国分寺の跡です。
「四神相応の土地」が良地とされ選ばれたのが国分寺崖線によって形成されたこの周辺でした。
東に川(青龍)、南に低湿地(朱雀)、西に道路(白虎)、北に丘陵(玄武)を当てはめると、崖から湧き出る小川が東に、多摩川の流れでできた河岸段丘の崖の上が北に、崖の下の平地が南に位置していて、西には「伝鎌倉街道」がありました。
名前 |
武蔵国分寺跡 |
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ジャンル |
|
電話番号 |
042-300-0073 |
住所 |
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関連サイト |
http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/smp/shisetsu/kouen/1005196/1004222.html |
評価 |
4.0 |
周辺のオススメ

最寄り駅 JR中央線 国分寺駅徒歩20分位観覧無料本史跡は、かつて武蔵国に置かれた国分寺および国分尼寺の跡地である。
尼寺区域は調査が終わっており歴史公園として整備されている。
一方僧寺区域は整備事業の一環で発掘調査中である。
との事です。
かなりの広い敷地です。
それだけ全国に置かれた国分寺が重要だったのでしょう。
史跡自体は説明碑が置かれ見やすくされ礎石等はそのままにしレンガ等で覆いオブジェ化されています。
公園になっていますので近隣住民の憩いにもなっていました。
少し歩きますが武蔵国分寺尼寺跡もありますがこの広大な土地全てが国分寺であったと考えると凄いですね。