秋晴れの城内は大変賑わっておりました。
第66回菊人形と菊の展示会初めて観て来ました。
又菊を出展される方に菊の育て方や盆栽について解説して頂き大変参考に成りましたし感動しました。
コロナ禍の為3年ぶりの開催という事でかなり老若男女のお客様が観にきていました。
少し早く来過ぎたせいか大輪の華が咲いていないのも有りましたので絶対近々観に行きます。
日本百名城の一つ二本松城。
駅から徒歩で20分ほどかかって到着。
箕輪門は立派な佇まいで石垣もかなり迫力が有りました。
幕末の戊辰戦争の舞台にもなった城跡です。
例年であれば菊人形が開催されているはずがコロナ禍で規模を縮小しての菊花展のみの開催となっていました。
子供の頃以来、かなり久しぶりに来ましたが、箕輪門や石垣は圧倒される存在感でした。
菊花展の菊の花々も素晴らしかったのですが、周辺をぐるりと散策したらなかなかの運動量になりました!
見事な門構え、三の丸までのクランク、そして綺麗に手入れされた松の木を見て来て良かったなと思いました。
間もなく菊人形祭りだったのですね!準備の最中のようでした。
初めてきましたが立派な門に城郭で驚きました、戊辰の役では會津とともに悲劇の地になってしまった二本松藩、先人たちに想いを馳せながら登城させて頂きました。
また菊人形祭りに来てみたいです。
丁度菊人形祭りをやっていました!!県外からもGOtoトラベル?でずいぶんきてましたよ!!規模は小さいけど素晴らしい‼️きちんとコロナ対策もしてました❗️
先に天守閣の方へ行って満足してしまったが、こちらはちょっと離れているものの来て良かった。
再建だからかえって劣化が無く立派で威厳に満ちている。
つながっている石垣も高くて長い。
手前が駐車場なので障害物が無く高さ等が強調される。
門をくぐって門の上に上がるとそこも広場。
駐車場だと思われるが、何か作っていたので建造物ができるのかも知れない。
門の正面に少年兵の像が立っているが、門だけで良いような気がする。
二本松菊人形まつりが開催されており、秋晴れの城内は大変賑わっておりました。
駐車場も無料ですし、スタッフの誘導もありスムーズに駐車できました。
三の丸下と上では、有料の菊人形まつり会場です。
箕輪門下や三の丸には、売店や軽食店があり、焼き物、おにぎり、団子等も販売しており、食事処も混んでいます。
歴史資料館を観覧後に来たので、二本松城の歴史を振り返り城内を散歩しました。
大きな城門である。
そしてかなりの規模の山城である。
戊辰の役を会津と共に戦った、二本松の城がこんなにも大きな規模だったんだと、あらためて認識した。
数日前に降った雪にもめげず、たくさんの桜の中に、過ぎてきた時を沈めて、城は一面の花雲に華やいでいた。
二本松城跡は中世城館と近世城郭が同一箇所で営まれ、かつ変貌がよくわかり、当時の政治 及び 築城技術を知ることができる東北地方を代表する城跡です。
史跡 旧二本松藩戒石銘碑もオススメです。
箕輪門とこれにつながる続櫓は再建されたもので、現在は二本松城のシンボル的な存在です。
門外には城跡碑・戊辰の役時の大城代内藤四郎兵衛戦死之地碑・二本松少年隊像などが建てられています。
門は緩やかな坂の上に直角に設けられ、くぐってさらに進むと虎口が設けられています。
門→虎口→三ノ丸下段に到着しますが、道は直角に2度曲がり攻めにくい構造を形作っています。
三ノ丸は上段と下段に分かれており、御殿や殿様の住居があったようです。
現在は二本松菊人形の会場になっています。
現在観光会館が建っているあたりは本坂御殿跡だそうです。
ここから本丸跡に上る登城路があったようです。
現在の道以外に登城路と書かれた立て札が建っています。
本丸下には硝煙蔵跡・蔵屋敷跡・南面大石垣・二本松藩士自尽の地碑・日影の井戸などがあります。
門と回りの石垣は予想していたよりかなり立派です。
山形城の大手門くらいはありそうな感じでしかも下から全体が見渡せるのがいいですね。
説明がほとんど無いのですが、もっと誇って説明しても良さそうなものです。
見る価値は十分あります。
名前 |
二本松城 箕輪門 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.1 |
二本松城で復元されたエリア。
一番見ごたえがある。
駐車場からも歩いて1分。
樹齢350年の赤松が多数みられる。
本丸まで徒歩15分。
丹羽光重が二本松の城主となって来た時、まず手をつけた大きな仕事は、城下町の都市計画と城郭の増改築であった。
その一つの工事として、城門の建設をしようとしたが、材料となる適当な樫の木を見つけることが出来ないで困り果ててしまった。
その後、領下全域に八方手をつくした結果、ようようにして箕輪村山王寺の山に発見したのであったが、その木は御神木として、手を触れてはならないいわれのある木だった。
重臣の山本(本山の誤りか)という人が、 「御神木とは申せ、城の護りにはかえられません」 というので、其の意見を用いて伐採することとなった。
人夫がやってきて、伐りはじめたところが、しばらく伐っているうちに不思議や、その切り口のところから、焔が吹き出したので、驚いた人夫が、役人に報告した。
「かまわずに伐れ」 との命令だったので、人夫は、どんどんと仕事を進めていった。
今度は真っ赤な血のようなものが、切り口から流れ出して来たので、再度の不気味な現象に恐れをもった人夫が、 「とても私に出来る仕事ではありません」 と願ったところ、役人も納得して 「木の持ち主ならよいだろう、地主がかわってやれ」 との事であった。
命ぜられた地主は、恐る恐る斧をもって伐ったが、今度は、不可怪な事もおこらず。
遂に御神木を伐りおえることができた。
樫の木が製材されることになった時、また不思議にも御丈九寸程(30cm位)の金仏が、樫の木の中から出現した。
驚いた役人が事の次第を光重公に言上したところ、光重公は 「御神木なら 山王の御神体であろう。
祀ってやるようにせよ」 とのことで、宮下御殿の山に、雲堂和尚を開山とする堂宇を建立した。
毎年6月15日を祭礼の日と定め、この日には箕輪村の村民は赤飯をたき、それを持参して参詣し、特に、藩主からは御酒を下さるのが、例となったが、後には、隔年の参詣となり、もっと後には、箕輪村民の参詣は途絶えてしまった。