昭和4(1929)年に完成した配水塔です。
灯台下暗しで拝んでなかった野方の配水塔。
妙平寺沿いのダイナミックな勾配の縁にある。
バス停の名前にも幼稚園の名前にもなっている。
階段塔が立派。
肝心な正面は幼稚園に塞がれているが、周りが公園になっているだけでもありがたい。
鉄筋が剥き出しになってるオブジェはいつ造られたものなんだろう。
哲学堂公園に行ったので、旧野方配水塔に寄ってみました。
以前、新井薬師さまにお参りした時にバスの窓越しに見かけて気になっていたんですよね。
関東大震災後、東京市に隣接した町村の水の需要に応じるために13の町村が合同で設立した荒玉水道の給水場に造られました。
高さ33.6mで基部直径が約18mの鉄筋コンクリート造。
設計は近代上水道の父、中島鋭治博士です。
着工は1927年で1966年まで使われていました。
解体計画もありましたが、災害用給水槽として使われ続け、現在は国の登録有形文化財として保存されています。
みずのとう幼稚園ごしの姿もカッコイイ。
地域のランドマークなんですネ。
せっかく見に来たのに、改修工事中だった…。
12月なんて、僕その頃まで生きているかどうかすらわからないよ。
でも、今回は仕方ないかな。
ネットのどこを見ても、改修中だという情報は見つけられない。
まあ、別に観光スポットなわけじゃないから仕方ない。
大正時代に山の手地域の人口が急増した事を受け、昭和4(1929)年に完成した配水塔です。
多摩川の水を砧(世田谷区)から野方(中野区)、大谷口(板橋区)に送水するために、荒玉水道という地下水道管が敷設されました。
野方配水塔は、塔の中に水を溜め、水圧による自然効果によって各戸への配水を行う仕組みとなっておりました。
高さは約34m、直径約18mの塔は約2000トンの水を貯水する事が出来たという事でした。
昭和41(1966)年にその役目を終えましたが、現在は国の登録有形文化財に指定されております。
また、太平洋戦争の空襲における弾痕が残っているため、中野区の平和史跡に指定されています。
私が訪れた時は外壁の補修中だったため、その全容を見ることは出来ませんでしたが、かなり大きく、偉容を備えていました。
2000トンの水を貯水できる堅牢な構造だからこそ空襲も生き延びられたのかもしれません。
ただ、公園を見る限りでは、工事中という事もあってか配水塔に関する説明は何一つなく、中野区のページやwikipediaを見て詳細な情報を得る事となりました。
中野区立水の塔公園の中にあります。
配水塔を眺めることしかできず、物足りなさがあり。
内部も見学できるようになるといい。
仕事でバスを利用する際に、面白いバス停の名前だな、と思っていました。
バス停の名前は水道タンク前。
調べると1966年までは地域の配水塔として活躍、1972年から災害時の貯水タンクとして運用してるとの事。
(wikiです)遠目で見ても大迫力。
巨大な灯台みたいな佇まいは先人の技術の高さを素人ながら感じます。
配水塔は哲学堂東側の信号を越えると直ぐ左側にそびえる🎉勇姿が見えますニャンコ😺下側にはみずのとう幼稚園があり昭和4年の竣工から地域では⭐️みずのとうの愛称で呼ばれていたニャン高さは200メートルロケットタイプのズンドウのややエンタシス姿が妙に❤️可愛らしく優美な印象を受けますニャン当初は大正時代の東京西郊ベッドタウンとして良好な飲料水配布を目的としましたが現在は防災用として有りますニャン国の登録文化財となり現存している配水塔の中では最古です😸ニャンコ。
たまに通りかかると、目に入る立派な建物。
昔は、似たようなのあちこちにあったかと。
昭和の歴史を感じられる貴重な建物です。
このレトロな外観が、カッコいい…と思うのは、自分だけでしょうか…?
この町のシンボルです。
令和の時代に昭和初期の建物は存在感抜群です。
最近まで屋根等の補修工事を行っていました。
以前は配水塔の公園で地域の盆踊りやバザーのような催しをしていましたが、今は全くありません。
これから道路拡張工事の予定もあるので、周りの様子も変わってしまうのかなと寂しく思っています。
哲学堂公園の近くたまたま、通り掛かり発見。
外観しか観る事は出来ませんが、国の有形文化財に指定された塔は、存在感が在ります。
歴史的遺産、ずっと保存遺して行って欲しいです。
中野区江古田1丁目にある東京都水道局の配水塔。
現在は災害用給水槽として使われています。
高さ33.6メートル。
公園になってます。
戦争砲弾の痕が確認できるとか・・。
中野通松ヶ丘あたりの坂から見えるとわくわくします。
見た目は太い灯台みたいです。
公園と幼稚園に隣接しています。
蓮花寺、哲学堂公園の近くに位置します。
よい姿の建造物だが、さすがに歳月には勝てず外壁の剥落が見てとれる。
これからも長くその姿を留めてほしい。
令和元年11月10日とうとう訪問。
何度も行こうとした憧れの物件はやはりすごかった。
歴史的な建物は是非永久保存してもらいたし、一年に一度は一般公開して欲しいけど、まずは無理かな。
残念。
結構カッコいいよね‼️
荒玉水道は大正時代から昭和中期にかけ多摩川の水を砧から野方と大谷口に送水するために使用された地下水道管である。
東京の発展に伴う人口の増加による上水の需要増により敷設された。
現在も砧から杉並区梅里までの荒玉水道に沿って「荒玉水道道路」東京都道428号高円寺砧浄水場線がある。
「荒玉」の「荒」とは荒川、「玉」とは玉川、すなわち多摩川を指している。
荒川まで延伸する計画もあったが実現しなかった。
配水塔が野方と大谷口にあった。
大谷口配水塔は2005年に取り壊されたが、野方配水塔は今も残っている。
野方配水塔1926年着工1929年竣工鉄筋コンクリート製高さ33.6m外径18m大谷口配水塔1925年着工1931年竣工鉄筋コンクリート製高さ33m外径15mどちらもドイツで衛生工学を学び、近代水道の礎を築いた中島鋭治博士により設計された。
大ドームの天辺に更に銅瓦葺のミニドームを載せた四阿があり、大ドームの周りもアーチ窓が並びバルコニーも巡っていて展望施設の様でもある。
水の塔公園。
公園の中にひっそりと立つ配水塔。
戦時中の傷痕が残っていたりと歴史もあるが、公園内からでは全貌がイマイチ拝めないのが残念。
中野は旧跡をドンドン失くしていく政策の様だが、残して欲しい旧跡のひとつ。
説明板には下のように書かれてました。
野方給水塔は、荒玉水道の給水場につくられた塔でした。
荒玉水道は大正十二年(1923)の関東大震災後、東京市に隣接した町村の急激な都市化による水の需要に応じるため、当時の豊多摩・北豊島両郡にある十三の町々が連合して設立しました。
配水塔は、ドイツで衛生工学を学び、淀橋浄水場を作った「近代上水道の父」中島永鋭治(なかじまえいじ)博士(1858~1925)の設計です。
着工は昭和二年(1927)で竣工は同四年です。
高さは32.6メートル、気部の直径約18メートルの鉄筋コンクリート造りです。
世田谷区の喜多見で多摩川から引水し、60万人の二時間分の貯水が可能といわれ、昭和四十一(1966)まで使われていました。
その後解体計画もありましたが、平成二十二年(2010)に国登録文化財となり大切に保存されています。
ドーム型の屋根が、地域の特徴ある景観をかたちづくり、江古田の水道タンク・みずの塔・給水塔などと親しまれてきた、東京近郊都市化のシンボルです。
子供の頃のランドマークでした!
下まで行ってみたら想像以上にデカい。
Nice place
哲学堂入り口付近から哲学堂公園野球場の方を見たときに、見慣れないドームが見えたので来て見ました。
関東大震災後、都市化の需要に応えるために作られた給水場に作られた配水塔です。
と公園側に建てられている銘板には書かれています。
もっと詳しい銘板も立てられてるのですが、塔の周りに有る柵の内側に立っており読みにくいです。
戦前にデザインされた建築物らしく重厚で威厳の有る佇まいが見ていて飽きませんでした。
塔の正面側に幼稚園が立っていて見にくいのが残念ですが、基本それ以外の三方はみずのとう公園ですのでユックリと眺めることが出来ました。
戦争の傷も残されている様ですし大事に残して欲しい建築物の一つだと思いました。
いつか敷地内も見学できる様に解放されるのを望みます。
名前 |
野方配水塔 |
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ジャンル |
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電話番号 |
03-3228-8731 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト |
https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/kurashi/bunka/bunka/torokubunkazai/nogatahaisuito.html |
評価 |
3.8 |
遠目に見える水の塔。
公園になっているので緑地化が進み、生い茂る木々の隙間を縫って存在感を示していました。
維持管理のための改修塗装が施された様子です。
見た目はきれいになっていたみたいですが全体的な印象に影響を与えている感じはしませんでした。
弾丸の跡が残るということでキョロキョロ探してみましたが削れたとこがそうなのか、よくわからなかった。
遠目には塗装と一体化して全くわかりません。
望遠のよいカメラが必要ですね。
幼稚園側の方がよく見えると思います。
真下に行くと首が疲れるだけでした。