路面が悪く車を引く牛が苦しんだために名づけられた。
赤坂の赤い坂は「牛鳴坂」。
坂タモリ港区編でも紹介されている。
その名は、荒れた道に牛が苦しんでいたことに由来するらしいのですが、今はすっかり、スッキリ舗装されています。
赤く舗装されているのは、赤坂だから?詳細は分かりませんが、関東ロームの色彩に寄せているから、良しとしたいですね。
江戸の坂道の名前はイカス!そんなネーミングの「牛鳴坂」今は面影ないですが、名前来るインスピレーションで楽しみましょう。
明治の地図には確かに「牛啼坂」
「赤坂から青山へ抜ける厚木通で、路面が悪く車をひく牛が苦しんだために名づけられた。
さいかち坂ともいう。
」と記されています。
牛が苦しんだからと名前がそのまま付いてしまった坂はあまりみかけないですね。
2017年夏に坂の上にあった金の🐪ラクダ像があったんですが、解体されちゃったらしいです。
赤阪から青山へ抜ける厚木通で、路面が悪く車をひく牛が苦しんだために名付けられた。
と書いてありましたが、急な坂道で牛が苦しんで鳴いたのかと勘違いしておりました。
厚木通は今の青山通り246号線でしょうか?江戸時代のこの辺りには武家屋敷が多くあり、この坂を上ったところにもあったそうです。
坂を上がったところを右に行った左側に山脇学園がありますが、その左側に武家屋敷表門があります。
ロマンを感じます。
江戸時代はここに美濃今尾藩、今の岐阜県安八郡にあった大名の上屋敷があったようですがこの表門は関係ありません。
どこからか移設されてきたのでしょうか?安八といえば関ケ原にも目と鼻の先。
ロマンを感じます。
牛鳴坂 うしなきざか赤坂から青山へ抜ける厚木通で、路面が悪く車を引く牛が苦しんだために名づけられた。
さいかち坂ともいう。
牛が鳴くのは急だからではなく、路面が荒れていたからだとか。
うしなきざか。
元地下ディスコの入口に金色で高さ3m程の3匹のラクダのオブジェのある宏全ビル。
株式会社オープンハウス・ディベロップメントにより2017年12月迄に解体される予定。
「牛鳴坂」という名前以上に不思議なのが、このラクダたち。
3匹の黄金のラクダの存在です。
結構大きくて、3匹ともトルコ風?帽子なんかかぶっちゃってます。
地域情報紙「MYタウン 赤坂 青山」2012年7月号によりますと……80年代のバブル全盛期、ここにディスコがあったそうです。
芝浦の「ジュリアナ東京」は有名ですが、赤坂にも月世界通りに「ムゲン」、赤坂4丁目には「HWITE HOUSE」というディスコがありました。
その「 WHITE HOUSE 」が「 BLACK & WHITE 」そしえ「キャメル」と名を変えて営業していたそうですが、その後、ディスコは潰れて赤坂彫金学園になりました。
その赤坂彫金学園も2012年3月で閉校しました。
またラクダに戻りますが「MYタウン 赤坂 青山」によりますと「どうしてこのラクダのオブジェを建てたのかは、元のオーナーも亡くなり、所有者も変わり、詳しいことはわからなくなってしまいました」とあります。
お店の名前が「キャメル」という名前だった当時に作られたものだったのでしょうか?そんなに昔のことではないのに、そして黄金のラクダはまだ健在なのに、わからなくなってしまったとは不思議ですね。
【CAMELS/キャメルズ】港区赤坂4-7-14台湾青果ビル地下1・2階青山通りから少し奥ばったところにあるディスコ。
エントランスには現存する3頭の黄金のラクダ。
アフリカ風の店内にトルコ調の家具が置かれています。
経営はAプロジェクトで、以前は『ベグリア』というディスコだったそうです。
当時のディスコ・シーンを強力に牽引したfou-fou, NEPENTAを代表とするスクエアビルの名店を運営していた「A-project Inc」の谷本会長、当時のfou-fou DJ美由氏。
「ザ・ノンフィクション “六本木の帝王”がいない冬」ザ・ノンフィクションはフジテレビで放送されているドキュメンタリー番組である。
放送日 2013年12月15日今日のザ・ノンフィクションは、ニューハーフを主軸に据えて大成功した六本木のショーパブのオーナー・谷本捷三に密着します。
しかし六本木の帝王と呼ばれた谷本捷三は、取材中の2011年12月に心筋梗塞で突然亡くなりました。
その晩年、彼を取り巻く人間模様とは?。
六本木にあるシアターレストラン「六本木・金魚」は、ニューハーフを中心にしたダンスを見せるいわゆるショーパブである。
客層は幅広く、自在に上下するステージがめくるめくイリュージョンを生み出し、踊り子が舞う。
谷本捷三はかつて六本木のランドマークだったスクエアビルで10軒のディスコを経営していた。
だがそれも今は昔、現在スクエアビルの跡地は駐車場になっている。
バブル終焉を察知した谷本はディスコを閉店し、その代わりに「金魚」をはじめとするショーパブを成功させた。
その頃の谷本をよく知る「DAINI’S table」の岡田大貮は、ショーパブと聞いて当時は驚き、谷本以外には誰もその発想が無かったと語っている。
谷本捷三は六本木の他に新宿にもショーパブを2軒持ち、ショーのクオリティに絶えず目を光らせていた。
この日、新宿の「ギャルソンパブ」にやってきた谷本捷三は、新人ダンサー・樋口帆波を抜擢した。
当然、元々のメンバー達には面白くなかった。
練習を視察した谷本は14年来の付き合いがある振り付け担当の片山治軌、通称ハルを罵倒した。
ハルの顔は青ざめていた。
そのハルが谷本への不満を爆発させたのは「琉球村」で行われていた沖縄公演での事だった。
会場を沸かせるやり方は、ハルと共に沖縄を任された演出家の鎌田絢也が担当していた。
一月の公演を終えた打ち上げの席では、溜め込んでいた谷本批判が噴出した。
鎌田は「金魚」のステージに衝撃を受けて谷本の門を叩き、谷本にかわいがられてきた人物だったが、沖縄公演から戻ってみると谷本と鎌田の間にも冷たい隙間風が吹き始めていた。
谷本捷三に抜擢された新人ダンサー・樋口帆波をセンターに据えた事でステージは一際パワーを増した様に見えた。
だが、踊り子達の間にも波紋は広がっていた。
例えばニューハーフのフィリピン人ダンサーのケイトはトップの座を帆波に奪われて店を辞め、ベテランの朝倉南も辞めていった。
ダンサー達の離脱は大きな痛手だったはずだが、谷本捷三は悠然としており「金魚」は他の店からダンサーを呼んで急場をしのいだ。
ダンサーが相次いで離脱した「金魚」を救う為、鎌田は静岡市のニューハーフラウンジ「PRICILLA」を訪れ、ユキをスカウトした。
「PRICILLA」のオーナー、紅は谷本の為ならとユキを送り出す考えがあったが、ユキは臆していた。
最終的に、鎌田の説得によりユキは店を移る事になったが、谷本はユキを「金魚」ではなく新宿の店に入れると決めてしまった。
ほどなく、谷本捷三は新人ニューハーフとして真田玲臣を連れてきて、厳しいレッスンを受けさせた。
新潟で公演が行われた日、谷本は公演を視察しにきたが演出の鎌田と会話しようとせず、谷本に無視をされていると感じた鎌田の心は限界に達していた。
新潟公演を終えて1か月、谷本との溝が深まっていた鎌田は「金魚」を辞める決心をした。
谷本は涙を流しながらも引き止めず「まず自分のために頑張れ」などと声をかけて鎌田を送り出した。
それから11か月後、谷本は心筋梗塞によってあまりにも唐突にこの世を去った。
葬儀は近親者だけを集めてひっそりと行われた。
享年67、六本木の帝王は伝説となった。
谷本捷三の葬儀から2ヵ月が経った2012年2月6日、谷本を見送るお別れ会が「金魚」で開かれ、ごく親しい友人達が集まった。
「DAINI’S table」の岡田大貮や株式会社アクスの松井雅美が、谷本の死を惜しむコメントを出した。
谷本が目をかけていた真田玲臣もステージに既に立っており、谷本は家族の様に自分を気にかけてくれていたと語った。
谷本が亡くなってから既に2年近くが立つが「金魚」では伝統の公演が今でも行われている。
谷本のやり方に不満をむき出しにしていたハルは事実上の責任者となっていたが、今は谷本と出会えた事が幸せだと思っていると語っていた。
静岡から上京したユキは新宿の店でトップダンサーになっていた。
谷本の元を飛び出した鎌田は、小さなマンションの一室でイベント会社を旗揚げしており、今でも時折谷本の事を想うと語っていた。
2013年11月、系列3店舗のダンサー達が「金魚」に集まった。
今はハルの呼びかけで、谷本の3回忌に向けて追悼のステージが準備されているという。
牛鳴坂(うしなきざか)。
急な坂道を登る牛が鳴いていたのも今は昔。
現在は3頭の黄金ラクダがシンボルとなっています。
名前 |
牛鳴坂 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
https://www.city.minato.tokyo.jp/kyouikucenter/kodomo/kids/machinami/saka/48.html |
評価 |
4.0 |
三編みが懐かしい山脇学園の通学路。
青山通りの角(今は国際医療福祉大学)は我が母校の赤坂小学校でした。
今は乃木坂近くのもと檜町小学校でした。