この辺から日本橋に かけては盛り場で迷子も多かった...
一石橋迷子しらせ石標 / / .
一石橋迷子しらせ石標江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋に かけては盛り場で迷子も多かったらしい。
当時は 迷子が出た場合、町内が責任をもって保護するこ とになっていた。
そこで安政四年(一八五七)、西河 岸町の一石橋の橋詰に、迷子探しのための告知石 碑が建立された。
日本橋から一石橋にかけての諸 町名主などが世話人となり、迷子保護の立場から 町奉行に申請したものである。
銘文は、正面「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側面 「志(しらす類(る)方」、左側面「たづぬる方」、裏 面安政四丁巳年二月 御願済建之 西河岸町」。
両側面上部に長方形の窪みがあり、左側面の窪み に迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼る。
通行人 がそれを見て心当たりがあれば、その旨を書いた 紙を右側面の窪みに貼って知らせたという。
いわ ば庶民の告知板である。
このほか湯島天神境内の 「月下氷人石」や浅草寺境内、両国橋橋詰など往来 の多い場所に同様のものがあった。
しかし震災や 戦災などで破壊され、現存するのは一石橋のもの だけである。
総高一七五・七cm(梓石一六三cm、台石一二〇 七cm)、棹石正面幅三六cm、同奥行二六cm、台 石正面幅七〇cm、同奥行六八・五cm。
作者など は不詳である。
懐かしす小学生の時に何度も通った。
待ち合わせに便利。
いい雰囲気だしていますね。
正面下の方の「不」の字のようなマークは、「几号水準点」といい明治になって測量のため刻まれたものです。
江戸時代の日本橋~一石橋界隈は盛り場で、迷子や尋ね人が多かったようです。
当時迷子は町内が責任を持つことになっており、1857年近隣の町名主等が世話人となり、一石橋に迷子探しの告知石碑が建立されました。
正面に「満よひ子の志るべ」、左側に「たづぬる方」、右側に「志らす類方」と刻まれています。
両側の上部に方形の窪みがあり、左側の窪くぼみに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、心当たりがある人はその旨を書いて右側の窪くぼみに貼りました。
いわば江戸庶民の告知板でした。
湯島天神 や浅草寺、両国橋等、往来の多い場所に同様のものがありました。
一石橋の北に金座支配・後藤庄三郎、南に呉服町頭取・後藤縫殿助の屋敷があり、後藤を二つ足して一石橋の名が付いたといわれていま。
歴史的には大変面白いし、詳細もあるのですがそれ以外に繋がるものがないのが勿体ないなぁ。
東京駅、日本橋界隈はこういった標がたくさん残ってますね。
跡地、石碑。
見てまわるだけでも面白いです。
迷子を探す告知板。
昔はここに紙を貼って知らせていたのですね。
他所にあったものは震災や戦災でなくなってしまってここが唯一のもの。
大切に残していきたいですね。
歴史を感じるよね‼️
江戸時代後半、この辺りから日本橋にかけては盛場で、迷子も多かったようです。
迷子は、その町内が責任をもって保護することになっていたそう。
そこで、この西河岸町の一石橋の橋詰に、迷子探しの為の告知石碑が建立された、とあります。
あまり磨かれなかったのか、ご多分に漏れず真っ黒な石碑です。
正面にある銘文は、満(ま)よひ子の志(し)るべ 、とあります。
左側に訪ねる人が、右側は志らす(知らす)人が紙を張って情報交換をしたとあります。
気にしてないと見過ごしてしまうかもしれません。
江戸時代後半ごろの迷子探しのための告知石碑とのことです。
時代劇「子連れ狼」のオープニングテーマ曲にも、出てくる、江戸時代からある有名な橋のあった場所。
名前 |
一石橋迷子しらせ石標 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
https://www.city.chuo.lg.jp/a0052/bunkakankou/rekishi/tokyobunkazai/sekihyo.html |
評価 |
3.6 |
東京駅の直ぐ近くに、こんなモノが遺っているのです。
江戸時代の生活の一部を感じさせる施設が、手に触れられるほど近くにあるのは素晴らしいことと思います。
歴史が繋がっていることを感じさせます。