1601年設置されその後当地に移転。
南町奉行所跡【東京都指定旧跡】 / / .
東京都指定史跡になっている江戸幕府三奉行のひとつ、南町奉行所の跡です。
呉服橋に位置し、行政、司法、警察を管轄していました。
名奉行として有名な大岡越前守や遠山左衛門(遠山の金さん)もいました。
知らないと見逃してしまうぐらい、しれっと名残り残っていて、私たちの住んでいる街に歴史が溶け込んで、その土地が土台となって今の東京の街並があるのを感じさせてくれます。
地下鉄への地下広場口の後ろの壁に石垣が残っています。
発掘の状況が記されたプレートも付いています。
地下広場には、穴蔵(地下室)の跡の木材が展示され、ベンチにも再利用されています。
江戸時代の地下室作りの歴史資料としても貴重なものです。
私の先祖もここに仕えていたので、全て壊してしまうことなく、少しでも保存してくれた先人たちに感謝です。
忠臣蔵も江戸大火も見守って、江戸の治安を守ってきた史跡です。
移り変わりの激しい東京都心に、神社仏閣でもないこういった行政歴史遺産が残されているのは日本人の誇りでしょう。
これからもずっと未来に残しておいて欲しい史跡のひとつです。
有楽町駅前に南町奉行所があったようです。
南町奉行所は江戸幕府の三奉行所のひとつ。
東京都指定旧跡になっていてそれを示すプレートなどが設置されています。
大きな有楽町駅前広場の一角なので知らずに通り過ぎている人が多いでしょうね。
有楽町駅のまん前にある。
配電盤みたいな物が石碑代わりになっているのが面白い。
ちなみにだが、発掘された遺構からの石や木は、周辺の施設に利用されている。
地下広場の木製ベンチは水道管の木を使っている。
江戸時代は現代に生きているのだ。
1601年設置されその後当地に移転。
有楽町駅中央口前の地下へ下るエスカレーターの裏側に奉行所の石組みがあります。
ここだけではなくエスカレーター下の地下に奉行所で使われていた穴蔵や現在ではベンチに再利用されている木製の水道管等の遺物があります。
北町奉行所跡も合わせて行ってみては?(場所が分かりにくい)
ピカデリー3に映画を観に行くついでに南町奉行所得跡に行って来ました。
久しぶりの有楽町、千葉からのお上りさんです。
記憶だと跡の表示の場所が若干、変わった気がします...f(^_^; 石組と表示だけなのでちょっと淋しいですが、大岡越前が敏腕を振るったお裁くきがこの地で行われていたと思うと重要な文化遺産だと思えました...只、配電盤を活用した見事なアイデアは素晴らしいのですが、cheap感満載です。
築地市場移転問題や国政にうつつを抜かすのも良いですが、小池さん、歴史的遺産もきちんと守りましょうね✨🎶
1601年設置されその後当地に移転。
有楽町駅中央口前の地下へ下るエスカレーターの裏側に奉行所の石組みがあります。
ここだけではなくエスカレーター下の地下に奉行所で使われていた穴蔵や現在ではベンチに再利用されている木製の水道管等の遺物があります。
北町奉行所跡も合わせて行ってみては?(場所が分かりにくい)
有楽町駅中央口の南側の円形大屋根の下の東側にある。
よく北町奉行所、南町奉行所と言われるように、江戸町奉行所は2ヶ所あり、1か月交代で開門する月番制によって交互に業務を行っていた。
これは民事訴訟の受付を北と南で交替で受理していたことを指すものであり、月番でない奉行所は、月番のときに受理して未処理となっている訴訟の処理等を行った。
奉行が職権で開始する刑事事件の処理などの通常業務は、月番であるか否かにかかわらず、常に行われていた。
ただし商業に関することだけは南北で窓口が分けられており、呉服・木綿・薬種問屋の案件は南町奉行所、書物・酒・廻船・材木問屋の案件は北町奉行所といったようにそれぞれ違う業種を受け持っていた。
現在で言うところの管轄区域は南北奉行所で分け合ったのではなく、南北双方の奉行所にいた廻り方同心各自に受け持ち地域を指定した。
南北という名称は、奉行所所在地の位置関係によりそう呼ばれていたということであり、南北は正式な呼称ではなく公式には一律で町奉行とのみ呼ばれた。
従って1つの奉行所が移転されたことによって、各奉行所間の位置関係が変更されると、移転されなかった奉行所の呼称も変更されることになる。
宝永4年(1707年)に本来北町奉行所であった常盤橋門内の役宅が一番南側の数寄屋橋門内に移転した際には、その場所ゆえに南町奉行所と呼ばれるようになり、従来鍛冶橋内にあった南町奉行所が中町奉行所に、同じく呉服橋門内にあった中町奉行所が北町奉行所となった。
明治以降、奉行所は取り壊されてしまったが、北(東京駅八重洲口北側付近)、南(有楽町マリオン・有楽町イトシア)、の両町奉行所が存在していたとされる場所には今でも石碑が建っている。
ただしいずれも幕末期における町奉行所の位置を指すものであり、文化2年(1805年)以後に固定化された場所に相応している。
初期は北と南の2つの町奉行は置かれず、1つの奉行で成り立っており、正式な町奉行という役職ではなかったが事実上同じ働きを持っていた。
正式に町奉行という官職ができたのは、北南町奉行が設置されてからである。
また途中中町奉行が設置されたがわずか17年で廃止された。
有楽町駅前の花壇をぐるりと回れば見つかるはず。
北町奉行所跡は、多少場所の議論はあるようだが、東京駅八重洲口の大丸付近に同様の掲示物がある。
両者は非常に近くにあったということがわかる。
大岡越前で有名な南町奉行所跡です。
現在は石碑と解説板しかありませんが、時代劇好きなら有楽町に来た時のついでにでも、立ち止まって当時の江戸を想像してみるのも一興だと思います。
名前 |
南町奉行所跡【東京都指定旧跡】 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.5 |
JR有楽町駅中央口の前にある地下入口の右の方に石碑があります特に資料も残って無いようてここにあった事を皆に知らせてます。