仕事先のすぐ先にあったとは!
千葉周作の玄武館に対して、小千葉と呼ばれた千葉定吉の千葉道場跡。
司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』でお馴染みの場所。
仕事先のすぐ先にあったとは!看板だけで気づきにくいですが、下級武士に向けた道場とは知りませんでした。
グラントーキーサウスタワーの職場から東京スクウェアーガーデンにある顧客やレストランに行く際に此処を良く通っていました。
まさか千葉道場だったとは。
司馬遼太郎著作の長編「龍馬がゆく」を読み、気持ちを高ぶらせた時を思い出します。
生垣のなかに、ひょっこりと歴史の面影が顔を出します。
街路樹の植え込みに説明書きの看板が建てられているだけですが、確かな歴史があります。
千葉定吉道場。
坂本龍馬もここで学んだことがあったらしい。
この場所がそうだったのか。
千葉定吉さんは、北辰一刀流剣術の創始者千葉周作の弟だそうです。
千葉周作は日本橋室町町あたりに道場を開き、千葉定吉はここに「小千葉道場」を開いたそうです。
坂本龍馬も江戸に出てきた時、ここに通ったそうです。
看板だけです。
龍馬も通った道場。
東京駅から徒歩5分ほど。
鍛冶橋通りに入り向かって右手の歩道に小さな看板が立っています。
龍馬の1回目の江戸自費遊学での滞在場所は、司馬遼太郎の竜馬は土佐藩上屋敷としていますが、実際は築地にある土佐藩中屋敷だったようです。
司馬さんの作品に上屋敷から京橋桶町にある小千葉道場に通う風景が描かれていますが、この頃はまだ京橋桶町には小千葉道場は無かったので、お玉池の千葉道場である玄武館に通っていたようです。
また、この頃、千葉周作の弟である定吉は鳥取藩の江戸屋敷に士官していたため小千葉道場で龍馬を指導したのは、その長男の重太郎であったとのこと。
この年1853年4月に土佐を出発し、5月に江戸へ龍馬が着いています。
ペリー艦隊来航が7月です。
龍馬の将来を決定する運命的な出来事が、土佐から来たばかりの若い龍馬に起きた、ということが、また、面白い。
黒船騒ぎに対応するために、江戸湾岸に藩邸を持つ諸藩に動員がかかります。
土佐藩は、今の立会川駅近くに下屋敷をもっていたため、龍馬もその下屋敷に10月まで動員され勤務することになります。
龍馬は土佐から2人で江戸に旅して来ましたが、もう1人は洋式砲術などの修得目的を持っていました。
また、この頃、土佐藩関係者が多く佐久間象山の門下生として様式砲術を学んでいました。
龍馬も下屋敷から中屋敷に戻った後、佐久間象山の門下生になっています。
2回目の自費江戸遊学では、築地にある中屋敷で生活しながら、京橋桶町にある小千葉道場に通っていました。
そこで薙刀の免許皆伝を受けています。
脱藩後に江戸に来た時は、この小千葉道場宅で生活していました。
こんなことを思いながら江戸の町を歩きました。
北辰一刀流剣術創始者として知られる千葉周作の弟である定吉の道場坂本龍馬も訪れたと言われています。
坂本龍馬が初めて東京に来たときに通った道場。
名前 |
千葉定吉道場跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.5 |
坂本龍馬が高知から剣術修行で上京してこの場所で鍛錬したことを想像するとなんだかとても感慨深い場所。
跡なので、立て看板一つあるだけで車で通ったので分からず一度素通りしてしまうくらい目立たない。