明るく散歩中に発見しました。
かつて江戸の神田には、お玉ヶ池という池がありました。
その規模は上野の不忍池よりも大きかったといわれております。
「お玉が池跡」は小ぶりな社ですが、一角に少し水がためられていて、金魚が泳いでいました。
ささやかながら、池のイメージでしょうか。
江戸期の古地図では景勝地として現在の不忍池程度の面積を有していたらしいでですが、江戸後期頃から徐々に、神田山(駿河台)を削って埋め立てて宅地化されて、弘化2年(1845年)の時点で池は存在していません。
この界隈には儒者、漢学者などが多数住んでおり、江戸の学問の中心地でもありました。
今はビルの狭間にお玉稲荷大明神と金魚が泳ぐ小さな池があります。
かつて、この辺り一帯に上野不忍池ほどのお玉ヶ池があったという。
発掘は行われていないようで、正確なことは分かっていない。
種痘所跡とこの稲荷に痕跡を残すのみ。
JR ・神田駅・徒歩🚶7分弱現在の東京都千代田区岩本町2丁目5番地の辺りにあった池靖国通りと昭和通りが交差する岩本町は、首都高速、地下鉄も入り交じる都心の交通要衝である。
この大通りから一歩路地に入るとビルの谷間に祠のわきにはユニットバスほどの大きさの池。
これがかつては上野の忍不池(しのばずいけ)をしのぐ大きさの池だったことを連想できる者はいないだろ徐々に埋め立てられ姿を消したといいます桜が池と呼ばれましたが、畔の茶店の娘に、男二人が心を通わせ、悩んだお玉は池に身を投じ、亡骸は池の畔に葬られたとある。
人々が彼女の死を哀れに思い、それまで桜ヶ池と呼ばれていたこの池を於玉ヶ池と呼ぶようになり、またお玉稲荷を建立して彼女の霊を慰めたという。
JR ・神田駅・徒歩🚶7分弱 現在の東京都千代田区岩本町2丁目5番地の辺りにあった池 靖国通りと昭和通りが交差する岩本町は、首都高速、地下鉄も入り交じる都心の交通要衝である。
この大通りから一歩路地に入るとビルの谷間に 祠のわきにはユニットバスほどの大きさの池。
これがかつては上野の忍不池(しのばずいけ)をしのぐ大きさの池だったことを連想できる者はいないだろ徐々に埋め立てられ姿を消したといいます 桜が池と呼ばれましたが、畔の茶店の娘に、男二人が心を通わせ、悩んだお玉は池に身を投じ、亡骸は池の畔に葬られたとある。
人々が彼女の死を哀れに思い、それまで桜ヶ池と呼ばれていたこの池を於玉ヶ池と呼ぶようになり、またお玉稲荷を建立して彼女の霊を慰めたという。
神田駅北口より徒歩10分程度岩本町の方が近いです昔は、桜が池との名前でしたが、池のほとりの茶屋娘のお玉さんが身を投げられたためにお玉が池と言うそうです。
今でも少し池が残っていて都会の隙間にひっそりとたたずんでおります。
お参りもできますよー。
かつてはここにとても大きな池があったようです。
ということは、今見ている風景も未来になったら全く違う風景になっている可能性がある、ということでもあります。
そう考えれば、感慨深いものがあります。
江戸時代初期。
この辺りに(桜ヶ池)と呼ばれた不忍池より大きな池があった。
その後、桜ヶ池は茶屋のお玉の名前を取って(お玉ヶ池)となった。
しかし、江戸府内の人口増加に伴い、神田山を崩してお玉ヶ池を埋め立て、そこに人家を建てた。
江戸時代後期。
この地に剣術家の千葉周作が玄武館と呼ばれる道場を建てた。
当時江戸では、力の斎藤、位の桃井、技の千葉と言われていた。
千葉道場の特長は、従来の武士だけに偏った剣術を防具や竹刀を使い、万人にも分かりやすく理論的に教えたので、町人も大勢詰めかけたりして繁栄した。
流儀名は北辰一刀流。
北辰とは北極星の事。
因みに、道場名の四神の一つの玄武をつけた。
四神とは、方位を司る霊獣の事。
北が玄武、東は青龍、南は朱雀、西は白虎。
幕末には、弟の千葉貞吉の道場を含めて多くの志士を輩出した。
坂本竜馬もその一人。
彼の考え方もこの道場の教え方が、かなり影響を与えたのかも知れない。
今は、ビルの間の殆ど日の当たらない細い路地に小さなお玉稲荷神社が当時の繁栄を伝えている。
徳川家康が江戸に入ったころ神田にあったという伝説の大池。
江戸時代、この辺りには千葉周作の道場「玄武館」や東大医学部の前身となった幕府の「種痘所」などがありました。
名前 |
お玉ヶ池跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.6 |
江戸時代、お玉ヶ池には北辰一刀流の千葉道場がありましたが、今は小さな神社があるのみです。
しかし、この辺りは江戸時代には武家屋敷や町家もあって賑わったと書いてありました。