まさか西郷さんがここに住んでいたとは思いもしなかっ...
明治四年から明治六年の政変で鹿児島に帰郷するまで住んでた場所。
現在は区立日本橋小学校。
公立とは思えぬ立派な校舎です。
西郷さん好きな人は、一度は行った方がいいかも。
周辺は有名なレストランが沢山あって、ランチの帰りとかに見て行くといいと思います。
西郷隆盛屋敷跡今、魚久本店のあるこのあたりは、江戸時代末期、姫路の殿様 酒井氏の屋敷があり、又その後には明治維新の三傑の一人、西郷隆盛が明治政府の参議となった頃、居を構えていた場所です。
明治初め、この地域には明治維新の元勲西郷隆盛(1827~1877)の屋敷がありました。
明治6年(1873)の「第壱大区沽券図」には、「蛎殻町1丁目壱番/二千六百三十三坪/金千五百八十六円/西郷隆盛」とあります。
屋敷には長屋に15人ほどの書生を住まわせ、下男を7人雇い、猟犬を数頭飼っていたといわれています。
維新後、西郷隆盛は郷里鹿児島にいましたが、明治4年(1871)に新政府から請われて上京し、参議に就任、同明治4年(1871)年10月に岩倉具視を特命全権大使とし、大久保利通、木戸孝允等を副使とする使節団が米欧へ派遣された後には、筆頭参議として留守政府首班となり、学制・徴兵制度・地租改正などの重要政策を実現しました。
明治6年(1873)になって、朝鮮との国交問題が緊迫し、武力出兵を主張するいわゆる征韓論が高まりを見せるなか、西郷は自らが朝鮮に渡って交渉することにより、問題の解決にあたろうとしました。
閣議でもいったんは西郷の施設派遣が決定されましたが、海外の視察から帰国した大久保等の猛烈な反対により使節派遣は中止となります。
この決定を受けて、西郷をはじめ、板垣退助や後藤象二郎等が参議を辞して下野しました(明治6年の改変)。
下野後、西郷はこの地にあった屋敷を引払い、鹿児島に帰郷します。
鹿児島では、士族子弟の教育のために私学校をつくり、また農耕と狩猟に悠々自適の生活を送っていましたが、明治10年(1877)に西南戦争を起こし自害しました。
平成19年(2007)3月 中央区教育委員会。
たでかつて此方に西郷隆盛のお屋敷が有ったことを示す看板があるのみです。
現在屋敷があった場所は児童館と小学校になってます。
日本橋小学校の入口近くに看板があり。
あまり目立たないです。
明治はじめ頃にこの場所に西郷隆盛の屋敷がありました。
奄美大島に到着してから2ヶ月間借りして住んだ家、アリカナさぁのご実家の敷地に住んだ二軒目の家、そしてアリカナさぁが菊草を身籠って、この島で家族と暮らそう自ら台風の強風も当たらない場所を探し建てた三軒目の家。
この家が完成した翌日に薩摩藩からの召還状が届いたのは皮肉なもので、この家には僅かな時間をアリカナさぁや菊次郎、そしてお腹にいた菊草と暮らし、西郷どんの生涯で一番幸せな時間だったのだろうと考えもした。
これらの家屋敷の跡を見ながら、様々な場面の西郷どんの気持ちがちったぁわかった気がしもす。
この辺りは度々通った事があるのに、まさか西郷さんがここに住んでいたとは思いもしなかった。
確かに住んでいたらしいと判るのは、自転車置き場の奥に小さな標識があるからに過ぎない。
旧幕府との最後の戦争が終わり、一度鹿児島に帰って再び東京に出てきて、大久保利通と間の征韓論に敗れ下野するまでの2年余りを過ごした場所。
以前は、大名が住んでいた広い屋敷のほんの一部しか使わず、幾人かの書生と暮らしていた。
とても政府の高官が住んでいるとは思えない所だったらしい。
理想としていた自分達が作り上げた政府なのに、この現実はどうなんだという葛藤も見え隠れしたりする。
上野の西郷さんの銅像は本人の意思とは関係なく、あくまで後世の人が造りたいと希望したもので、西郷さん本人はこの自転車置き場の標識で良しとしたように思われてならない。
どちらにせよ、西南戦争で反乱軍首謀者のレッテルを貼られたにも拘らず、未だに人気があるのはどうしてでしょうか?そんな事を想いながら、自転車置き場から立ち去った。
今は何も無くなった西郷隆盛住居跡地です。
鹿児島では、西郷さんを「せごどん」と久しく呼んでいます。
鹿児島市内には、誕生の地や岩崎谷の終焉の地があり、官軍の銃弾が、せごどんにあたり「しんどん、ここいらでよか」と言って、別府晋介は、涙を流しながら刀を落としています。
この日、1877年9月24日、せごどん49才で亡くなっています。
今年で、明治維新150年になります。
「敬天愛人」の西郷隆盛は、今の日本をどう見ているのでしょうか。
(2018/1)
今、魚久本店のあるこのあたりは、江戸時代末期、姫路の殿様 酒井氏の屋敷があり、又その後には明治維新の三傑の一人、西郷隆盛が明治政府の参議となった頃、居を構えていた場所です。
明治初め、この地域には明治維新の元勲西郷隆盛(1827~1877)の屋敷がありました。
明治6年(1873)の「第壱大区沽券図」には、「蛎殻町1丁目壱番/二千六百三十三坪/金千五百八十六円/西郷隆盛」とあります。
屋敷には長屋に15人ほどの書生を住まわせ、下男を7人雇い、猟犬を数頭飼っていたといわれています。
維新後、西郷隆盛は郷里鹿児島にいましたが、明治4年(1871)に新政府から請われて上京し、参議に就任、同明治4年(1871)年10月に岩倉具視を特命全権大使とし、大久保利通、木戸孝允等を副使とする使節団が米欧へ派遣された後には、筆頭参議として留守政府首班となり、学制・徴兵制度・地租改正などの重要政策を実現しました。
明治6年(1873)になって、朝鮮との国交問題が緊迫し、武力出兵を主張するいわゆる征韓論が高まりを見せるなか、西郷は自らが朝鮮に渡って交渉することにより、問題の解決にあたろうとしました。
閣議でもいったんは西郷の施設派遣が決定されましたが、海外の視察から帰国した大久保等の猛烈な反対により使節派遣は中止となります。
この決定を受けて、西郷をはじめ、板垣退助や後藤象二郎等が参議を辞して下野しました(明治6年の改変)。
下野後、西郷はこの地にあった屋敷を引払い、鹿児島に帰郷します。
鹿児島では、士族子弟の教育のために私学校をつくり、また農耕と狩猟に悠々自適の生活を送っていましたが、明治10年(1877)に西南戦争を起こし自害しました。
日本史のフィールドワーク・備忘録として。
現在は日本橋小学校、日本橋幼稚園が建っており、遺構はおろか当時の面影はまったくありません。
訪れる際にはご注意ください。
また、かつてこの辺りには銀貨を鋳造する銀座もありましたが、こちらも何も残っておりません。
名前 |
西郷隆盛屋敷跡 |
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ジャンル |
|
住所 |
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関連サイト |
https://www.city.chuo.lg.jp/bunka/shisetsu/kankoujouhou_center.html |
評価 |
3.4 |
跡地は、今は日本橋幼稚園になってます。
この建物も素敵ですよね。