街の名の由来となったのが、この浅草橋。
浅草見附跡(江戸城三十六見附) / / .
赤坂、四谷、牛込の見附は有名だが、浅草橋にもあったなんて知りませんでした。
木からミストが出てたり、トイレがあったりとちょっとした休憩に最適です。
かつてこの地には浅草御門と呼ばれた門があった。
江戸市中にこうした場所が36ヶ所あり、これを江戸城36見附とも江戸36門とも言った。
その36見附の1つである浅草見附は、浅草御門とも浅草門とも呼ばれ、浅草橋は浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたが、いつしか浅草橋になったそうだ。
この浅草橋界隈は、人形・玩具や繊維製品の問屋街として発展し、その代表格がおもちゃのBANDAIや人形の久月だろう。
自分の住まいの近所に歴史的跡地が在るとは、気が付かなかった、江戸時代の名残のある両国橋や深川とか、時代劇等でよく名称が登場して岡っ引き等がそれぞれの地名を走り回っている光景が想像していたこの江戸城浅草見附も登場していたかも知れない!まだまだ近所に歴史的跡地が在るかも知れない、注意して観測してみたい。
明暦三年(1657)、江戸の街を灰燼に帰した未曽有の火災、「明暦の大火」が起こる。
二日間の間に連続して3件の火災が発生し、江戸市中の大半が消失した大火災だった。
伝馬町牢屋敷では迫りくる火の手に、牢屋奉行の石出帯刀が「火災が収まったら戻ってくること」を条件に、牢獄の罪人を開放した。
しかしそのことが役人の間でうまく伝達されていなかったため、集団で脱獄する事案が発生したと勘違いした門番が、神田川を超えて逃げられる橋である浅草御門を閉ざしてしまった。
そこへ浅草御門を抜けて風上に逃げようとする町民数万人が続々押し寄せ、そのために今度は引き戸である門が開けられなくなってしまった。
後ろから炎が迫ってくるため、民衆は我先にと塀を乗り越え、石垣を転げ落ちて、さらに後ろから飛び込んでくる人たちの下敷きになり堀は埋まり、後からその上に飛び降りた人たちが重なる人々の上を渡って命を救われた。
この場所だけで2万3千人余りの死者を出し、その2年後、防災のために両国橋が架橋された。
「見附」は街道の分かれ道などに置かれた怪しい人物を見つけるために設置された番人のいるところという意味合いだそうです。
江戸城には市中や城内に入ってこようとする敵を発見するために36箇所設けられていたんだそうです。
赤坂見附、は駅の名前にもなってて有名ですが、この地にもあったんですね。
説明板が建っており、下のように書かれていました。
浅草見附は、江戸三十六門の中、外郭門に配する十二見附の一つであり、奥羽への街道口として寛永13年に設営された。
慶長年間すでに浅草橋の名があり、見附が廃されたのは明治以前のことである。
これに因んで、昭和9年6月1日、現在の浅草橋一、二、三丁目の町名が生れた。
昭和31年10月1日開都500年大東京祭記念浅草南部有志観光協会之を建てる。
<旧浅草橋>浅草橋という町は昭和9年(1934)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、榊町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。
町名は神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。
江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。
奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。
また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。
ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永13年(1636)のことである。
浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。
浅草橋駅南側に江戸時代の浅草見附跡がありました。
江戸時代には日本橋からここら辺りが浅草の入口なんでしょうね。
現代人には浅草橋ですから。
浅草橋公園の中にある見附跡記念碑。
浅草橋公園は浅草橋北詰めにあるミニ公園。
上段に浅草橋北詰公衆便所と浅草見附跡記念碑が、下段にミニ広場がある。
神田川には三浦屋などの屋形船乗り場が並ぶ。
名前 |
浅草見附跡(江戸城三十六見附) |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.7 |
街の名の由来となったのが、この浅草橋。
江戸城に36あった見張り番所の一つ浅草見附に架かる橋でした。
橋のたもとには、その歴史を伝える石碑が建っています。