石碑が設置されていますecの敷地内です。
今は石碑があるのみです。
戊辰戦争勃発の原因、旧幕府側から焼き討ちされた江戸薩摩藩邸があった場所です。
なぜ、焼き討ちに遭ったのか。
薩長土肥が作り上げた官軍教育下の現代の学校では教えてくれませんので、各々お調べ下さい。
ビル街の中に石碑のみ立つだけになっており、往事を偲ばせるものは他に見当たりません。
なので、想像を膨らませて、こちらの史跡を楽しんで頂ければと思います。
NECの裏にあります。
NECの本社は薩摩藩上屋敷の跡に建っています。
ただしく言うと、薩摩藩上屋敷の一部です。
作家綱淵謙錠氏の本中に次の様な内容の話があります。
幕藩体制(関ヶ原の戦いから廃藩置県まで)における大名家の当主の数は、4304人にのぼる。
しかし、後世の人間の評価における(名君)(賢侯)はこの中で何人いたことになるだろう。
幕末の(四賢侯)の一人、越前福井藩主松平春獄(吉宗の玄孫)は余り他人を褒めない人であった。
その人が島津斉彬を非常に褒めていたとその中に記載されている。
幕臣の勝海舟にも同じ様な事を言っていたの記載もあり。
島津斉彬は江戸の芝の薩摩藩邸で生まれた。
しかし、藩主になったのは遅く四十三才の時であった。
その長い間に色々苦労を味わうことになる。
(薩摩に馬鹿殿なく、彦根に馬鹿家老なし)ということわざがあったが、その中でもその能力は特に飛び抜けていたと思われる。
殿様特有の温厚を持ちながらも、先進性や革新性を身につけ、時と場合によっては大胆不敵な面も兼ね備えており、併せて行動力兼ね備えていた。
当時の薩摩出身の人は直接的又は間接的に斉彬の薫陶を受けた。
特に、西郷隆盛はその影響を身近に受け、斉彬の思想を基本にして西郷の生き方や考え方の根本を築き上げたと思われる。
斉彬は、西郷を育てる為に自分の身近に彼を置いた。
日本の国旗の(日の丸)の原型も斉彬が作り出した。
この場所にある石碑の薩摩藩邸の文字は西郷が書いたらしい。
ところが、この石碑の場所がわからず、広い建物を一周して、その時に一度は見逃してしまった。
もう少し何とか分かりやすくしてほしいと願った。
しかし、敢えてわざわざこの石碑を見に来る人もいるはずもないと思ったりもした。
田町、三田 の 薩摩藩三田藩邸跡 の前を通った時の一枚!!薩摩藩は、77万石の大藩で、江戸にいくつも屋敷があったそうですね!!実際の薩摩屋敷の中心は、お隣の三井住友信託銀行芝ビルとセレスティンホテルの方だったみたいです👀
薩摩屋敷の中でも上屋敷の跡である。
地味に石碑1つあるだけ。
港区のコミュニティバスである、ちぃばす 芝五丁目停留所の前。
敷地跡一部は現在日本電気(NEC)の本社。
実は屋敷の中心部は日本電気本社北側にある、三井住友信託銀行とセレスティンホテルの間にある広場。
田町を歩いていたら密かにこんな石碑があった。
記念碑が見つからない。
石碑が設置されていますecの敷地内です。
Very quiet place on premises of NEC. You can enjoy greenery when weather is nice. As there are some benches, you can sit there and relax. Smoking not allowed.
NECの敷地内にベンチがあり、都心なのに木々に囲まれた清々しい雰囲気に癒されます。
誰もいない静かなところ落ち着く。
名前 |
薩摩藩三田藩邸跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.3 |
NEC本社ビルの正面より右側道路(緑地)に石碑が設置されています面影は何もありません。