忠臣蔵ではヒール的なイメージの人物です。
吉良邸跡(本所松坂町公園) / / .
多くの人が知る『忠臣蔵』赤穂浪士が討入りした『吉良邸跡』特に何か特別な物があるわけではありませんが、320年以上も前にここで誰もが知る史実があった場所というだけで感慨深いです。
赤穂浪士の討ち入りの場所です。
当時のものとしては「吉良の首洗いの井戸」が残されているだけなので、見学にそれほど時間はかからないかと思います。
忠臣蔵の副主人公ともいえる吉良上野介。
歴史フィクションである忠臣蔵では悪役を演じさせられているが名君としてももまれが高い。
その吉良邸跡がこの両国にある。
初めて訪れたが、吉良上野介像があったり神社があったり歴史好きなら一度は行きたい観光地だ。
『忠臣蔵』でお馴染みの、『吉良邸跡』に伺いました。
こじんまりした場所でしたが、実際の吉良邸は、かなり広かったようですネ。
『忠臣蔵』は、映画やTVで、何度も映像化されました。
吉良役には、『月形龍之介』さんや『芦田伸介』さん等、名優の方々が、演じておられました。
最近、なかなか映像化されませんナァ~😑まぁ昔の作品でも観て、思い出に浸りましょうかネ😌
都指定旧跡 吉良邸跡。
忠臣蔵で有名な吉良上野介義央の邸宅の一部で、当時の86分の1の広さとされている。
また、この場所は「吉良公御首級洗い井戸」を中心に両国三丁目町会有志が発起人となって購入し、昭和9年に東京都に寄付したことにより維持されました。
入った印象はこじんまり。
なまこ壁と黒塗りの門が当時の雰囲気を醸し出している。
家臣の碑もあり、物悲しさも感じる。
歴史の一幕を垣間見れる貴重なスポットだと思います。
319年前の本日12月14日に江戸時代最大の敵討ちが行われたのが、現在公園となっている旧吉良邸。
同日に泉岳寺では義士祭が行われていて多くの参拝者が赤穂浪士や浅野内匠頭の墓前に線香を手向けているのに対し、こちらはほとんど訪れる人のない寂しい状況である。
講談や歌舞伎では一方的な敵役に据えられて気の毒にさえ思ってしまうので、毎年泉岳寺を訪れる際にはあわせてこちらにも足を運ぶ事にしている。
史跡にしてはコンパクトであるが、色彩付の吉良上野介の座像は手入れされていて、近隣の方たちがこまめに手入れをしているのであろう事が窺える。
赤穂浪士討ち入りの吉良邸に、行ったのですが綺麗になまこ壁で囲まれた、公園になっており、赤穂義士の碑やら吉良公の座像、御稲荷さん、御首洗いの井戸等有り、感じのいい公園です12月14日は此の公園から高輪の泉岳寺迄歩いた事も有ります⭕⭕
赤穂浪士の討ち入りは、毎年テレビ等で見ております、歴史上三大敵討ちのひとつなれど、快挙の裏に銘々伝の、話しと、義士に、まつわる回りの天野屋利兵衛とか、妻子のおもい、内蔵助、妻との、山科の別れ、人生の悲哀は、憂き世の流れを、神のいたずらに、翻弄された時代ですね‼️
忠臣蔵の話が大好きでここも憧れの聖地でした!だけど…忠臣蔵の話って現代人の感覚だと間違いなく吉良が徹底的に被害者やよな💦考えたら可哀想なおじいちゃんやで😭
忠臣蔵ではヒール的なイメージの人物です。
実際この場所に来て、本当はどんな人物だったのだろうと、思いを寄せて見るのも良いかもしれません。
「吉良上野介の子の悲運な最期」討ち入りの日には高輪泉岳寺で華々しく義士祭がとりおこなわれるが、ここ両国の吉良邸跡では同時に吉良祭が行われる。
平成20年に訪れた時のポスター(写真)町内会は町興しのために吉良祭では集客力が弱いので元禄市という名目で町興しをはじめたようだ。
吉良邸は江戸城の松の廊下での浅野匠の守の刃傷沙汰の後に日本橋からこちらへ処替となり居を構えた。
仇討に対する警戒をしていたにもかかわらず隙をつかれて未明に討ちいられて上野介の首をはねられてしまった。
吉良家は当時の旗本の高家として高い地位にあったようで公家との連絡、接待などの役目を受け持っていた。
しかし、どこの社会、組織にもいる地位をかさにきたイジメ体質の人物であったようで史料によると浅野の殿様の他にも上野介からイジメを受けていた人物は多かったようだ。
現代社会のように倍返しを夢見て我慢するサラリーマンのようにはいかず、家来、家族の生活を考えず、激情を抑えきれずに上司に暴力をふるったお坊ちゃんの浅野の殿様はお家断絶、切腹となり、家来は生活の糧を失い路頭に迷うこととなった。
旧吉良邸の一部が公園として残されている。
30坪程度の小さい公園である。
吉良邸は500坪ほどあったが、不浄の地として買い手が現れず、細かく整地して販売したと伝えられている。
この小さい公園内にはお稲荷さんがあるが、かって「上野稲荷」(コウズケいなり)と呼ばれていたがその呼び名が嫌われて改名したとの言い伝えがある。
さて上野介の跡継ぎは親戚(父が上野介の子であり上杉家に跡継ぎの養子となった)の上杉家から養子として吉良家へきた左兵衛義周(さへいよしかね20歳)は討ち入りの際に浪士と戦い深手を負い気絶をしていた。
その後1年後、吉良左兵衛義周は幕府の評定所に呼び出されて「仕方不届きにつき、領地召し上げ、諏訪安芸守へお預かりとする」となった。
そして罪人扱いの籠にのせられ一旦安芸守の屋敷へ送られ、そして信州高島で幽閉されて3年後に餓死同様に息が絶えてここに吉良家の血統は絶えた。
ここで不思議に思うのはなぜ勇敢に戦った左兵衛義周が仕方不届きなのだろうかとの疑問である。
その答えは吉良邸は私邸ではなく幕府の公邸であり、その公邸に狼藉者を侵入させて吉良上野介の首をとられたことが仕方不届きであると史料にある。
もし上野介が逃げおうせたらその後の展開もちがっていただろうに。
上野介のイジメ癖。
浅野の忍耐力のなさ。
赤穂浪士の実行力と執念。
吉良家の養子になったために可哀そうな身の上なった左兵衛義周に同情を禁じ得ない。
毎年恒例の元禄市、義士祭、吉良祭なんて呼び方もあるそうです。
早い時間に行かないと山形の芋煮はたべられないので、行くなら早い時間がおすすめです。
11時前くらいから芋煮スタート13時くらいには無くなります。
本当はもっと作れるんですが、人気過ぎて他の食べ物が売れなくなってしまうので、大鍋一つまでしかダメと商店会に言われてそうなってしまったそうです。
両国はアパレルメーカーや卸が多いので、ブランドのサンプルがあったり服も安く買えたりします。
ドラマ等テレビでしか見たことが無かったので、歴史を感じた気がします。
周りは今なのにここだけ歴史が止まったかの様な、保存された方々にありがとうございます。
旧吉良邸の一部を地元有志が資金を出し公園としたものですが、公園と言っても海鼠壁に囲まれた1区画です。
中は上野介義央の首を洗ったとされる『首洗い井戸』とガラスケースに入れた資料展示がなされています。
並びにこじんまりした喫茶店やお土産が買える和菓子舗、近隣には『勝海舟・芥川龍之介・舟橋聖一』生誕地や振袖火事の犠牲者を祀り、犬猫塚・力士塚・鼠小僧次郎吉の墓がある回向院(諸宗山無縁寺)、両国駅や国技館併設の相撲博物館などもあり楽しめます。
毎年5月に両国駅前を中心とした『両国にぎわい祭り』、12月には本所松坂町公園を中心とした『吉良祭』が行われます。
名前 |
吉良邸跡(本所松坂町公園) |
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ジャンル |
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電話番号 |
03-5608-6661 |
住所 |
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関連サイト |
http://www.city.sumida.lg.jp/smph/sisetu_info/kouen/kunai_park_annai/sumida_park/park01.html |
評価 |
3.7 |
公園なのですが、赤穂浪士が押し入った吉良邸跡です。
討ち取った後首を洗った井戸も存在しています。
しかし赤穂浪士はここから泉岳寺までよく歩いたものだと思います。