言葉になりません。
多くの犠牲者、被災者を出した関東大震災の慰霊を目的に創建された大きな建物です。
中は震災の様子を描いた大きな絵が展示され、長いベンチがいくつか置かれており、さながら教会のような構造でした。
1923年9月1日に発生した関東大震災で被災した人々を慰霊するために創建された。
その後1945年の東京大空襲をはじめとした空襲の被災者もあわせて慰霊されている。
両国には回向院のように災害等の被災者を供養する施設が多い。
1923年(大正12)の関東大震災の遭難者の御遺骨を納めるための霊堂として7年後の1930年(昭和5)に完成その後太平洋戦争中の大空襲で亡くなった御遺骨も慰霊塔に納められ名称を東京都慰霊堂と改めた都の歴史的建造物に選定慰霊堂内には絵画や戦時中の写真を展示。
横網公園内にあります。
大正12(1923)年の関東大震災の後に、東京市内で災害の最も深刻だった被服廠跡に遭難死者の遺骨を納める霊堂として建てられ「震災記念堂」と名付けられました。
その後、昭和19(1944)年の東京大空襲の戦災遭難者の霊と御遺骨を併せてこの堂に奉安し、名称を「東京都慰霊堂」と改めたそうです。
横網町公園内にある関東大震災と東京大空襲の犠牲者を追悼する慰霊堂です。
関東大震災、東京大空襲の遭難者の遺骨を合わせて納めているそうです。
慰霊堂内を参拝、見学出来ます。
慰霊堂の設計は、築地本願寺や湯島聖堂を手がけられた伊東忠太氏です。
この間の耐震補強工事の際に、特徴のある怪しい動物も作り変えられたみたいですね。
関東大震災、空襲で亡くなられた方々への慰霊施設です。
すぐ近くに隅田川があり、また国技館にも比較的近い場所にありますので、足を運び追悼されることをおすすめ致します。
敷地も広く落ち着いた場所です。
関東大震災における身元不明の死者を弔うため、昭和5年に官民の浄財により建てられた供養施設。
建設には築地本願寺の建築で知られる伊東忠太が手掛けていて、独特の建築様式になっている。
この様な災害が起こらない事を祈願し建てられたのだが、先の大戦末の空襲において震災の数倍になる被害が出てこれらの身元不明者も合祀している。
前回来た時はよく知らずに眺めるだけだったが、今回はお参りしてきた。
元々は陸軍の被服しょうがあった所。
関東大震災ではここに避難した35,000人が焼死したそう。
約6万人近い震災犠牲者を弔うために昭和6年6月に震災記念堂として建てられました。
また第二次世界大戦の戦火犠牲者も合祀して東京都慰霊堂として改められた。
拝殿は鉄筋コンクリート造りの、銅瓦葺きの和風様式。
1923年関東大震災があり罹災した人々は、墨田区民約38,000人以上東京全体で55.000人以上が死亡しその遺骨を、安置する場所を慰霊堂を建てた場所です。
又太平洋戦争1945年の東京大空襲の約105,000人以上が死亡し1956年に東京都慰霊堂と名を変えてこの場所に安置しました。
現在は、毎年3月10日と9月1日に慰霊法要が、行われています。
関東大震災の慰霊堂です。
何故ここなのかは分かりませんが、毎年行われます。
江戸時代の大火事は両国 回向院で行われますから、そこからは近いですね。
まず入り口の所にビデオがありこの公園の歴史、関東大震災、東京大空襲について学べる横の壁には大きな絵の展示とても悲しい気持ちになるがしっかり知っておくべきこと。
東京都慰霊堂のある横網公園は、もともと陸軍被服廠のあった場所で、大正11年に陸軍から東京市が譲り受け公園の工事を進めていて、更地になっていたため本所周辺の関東大震災の被災者が大勢避難していたところに、火災旋風により、火の粉が運び込まれた家財道具などに飛び火し、炎の竜巻になって瞬く間に燃え広がり、38000人もの人々が焼死した場所です。
震災による行方不明者を除く死亡者が確認できただけで東京市内で74000人だったそうですから、この狭い公園の一角だけでその半数以上のを締めていたようですからすさまじい光景だったようです。
そんな大勢の被害者がこの地で出たこともあって、その後公園内には、関東大地震による遭難死者約5万8000人の遺骨を納めるため1930(昭和5)年にこの慰霊記念堂が建設されました。
この計画に当たリ設計コンペを行い、採用されたのが東大工学部の辰野金吾に続く2代目のボス伊東忠太教授でした。
彼の代表作作としては、明治神宮、平安神宮、湯島聖堂、築地本願寺、靖国神社等の神社仏閣を中心とする建物のほか大倉集古館等の宗教色の強い建物を、数多く手がけています。
有名な話ですが、妖怪マニアで彼の手がける建物には、彼の想像から生み出された動物や妖怪を必ず取り入れています。
人はそれを「伊東忠太動物園」と呼んでいます。
東京都慰霊堂は大正十二年九月一日に発生した関東大震災により亡くなられた、およそ五万八千人の遺骨を納めるための霊堂として昭和5年に建てられました。
その後、大東亜戦争最中にあった東京大空襲による死者、約十万五千人の遺骨もこの霊堂に併せて納められ、現在、約十六万体の遺骨が安置されているそうです。
東京都復興記念館横には、震災や戦災による生々しい焼骸が展示されています。
復興記念館普段は開放していないそうですが、慰霊の記念日には無料開放されます。
画は無いですが、保管されている「菅原黄丘」作、「東都大震災過眼記録」の展示がされていました。
東京は関東大震災、太平洋戦争の空襲から復興した不死鳥のような都市です。
しかし、現代の東京にはこのような先人の方々が乗り越えてきた歴史を感じる場所は少ないです。
この場所では、関東大震災、太平洋戦争で亡くなった方々の慰霊堂ですが、亡くなった方々を追悼すると共に、私達の歴史を学べる場所でもあります。
天井近くの壁に描かれた絵画をじっくりと見て下さい。
そして、私達の歴史を忘れないように、記憶を受け継いで行く場所でもあると思います。
銀杏の紅葉が素敵です。
見事な建物があり、入館は無料です。
英語でも説明の動画が流れています。
戦争の時の絵や、昔の椅子、天井や壁の作りは絶対にお勧めです!どうぞ皆様も行ってみてください。
Located in 横網町公園 (Yokoami-chō koen) Park, the 東京都慰霊堂 (Tōkyōto ireidō) Tokyo Metropolitan Memorial Hall, is an imposing structure within the grounds.
日本寺院のような外観だが、鉄筋コンクリート造りで、木造建築とは違った重厚さが感じられる建物。
内に入ると、講堂のようでも、また教会のようでもあり、和洋折衷の造りであることがわかる。
一応、開放扉の右側が入口、左側が出口と指定されており、入口右手にビデオ解説コーナーがあり、そこから建物を左回りに観覧、礼拝する順路のようだ。
入口右側には震災関連の絵画、左側には東京空襲関連の写真が展示されており、災禍の悲惨さを後世に伝えている。
中央の祭壇には、大きな位牌が二つ並んでおり、どちらかが関東大震災の犠牲者、別のものが合祀された東京空襲の犠牲者の位牌となっていると思料する。
絵画、写真の展示位置からすると、向かって右側が震災、左側が空襲の犠牲者の位牌かな🤔。
建物の建築デザイン一等案は、この建物よりも西洋風だったため選考から外れ、審査員だった伊東忠太氏の監督の下このように建築され、1930(昭和5)年に完成したとのこと。
犠牲者を慰霊すると共に災禍の悲惨さを記憶に留め、かつレトロな近代建築の無料鑑賞もできる場所となっている。
頂かなかったが、横網町公園内慰霊協会事務所で、御朱印(300円)も頂けるようだ。
名前 |
東京都慰霊堂 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.2 |
関東大震災と東京大空襲で亡くなられた方の慰霊堂。
多くの人にお参りしてもらいたいお堂です。