レザノフ来航の4年後に樺太探検へ出発。
樺太択捉島を探検した間宮林蔵宗倫公の御廟所。
大正時代に当時の東京府から史跡指定を受け保護されている。
江戸における被葬地だが菩提寺の本立院から徒歩5分程離れた一角に存在する。
元々本立院は別の隅田川沿いの永代橋近くに有ったが、周辺の寺院ひっくるめて江戸幕府の政策で現在地に移転させられたので墓地と寺院の場所が離れていたりするのは、江戸特有の事情だったりする。
墓の他に説明板があり、下のように書かれてました。
間宮林蔵は、安永9年(1780、一説に安永4年)、常陸国(茨城県)筑波郡上平柳村に生まれ、天保15年(1844)に深川蛤町の家で没しました。
名は倫宗(ともむね)といい、伊能忠敬に測量を学び、寛政十二年(1800)に幕府の蝦夷地御用雇となり、蝦夷(北海道)をはじめとする北地探検と測量に従事しました。
文化五年(1808)、幕命により松田伝十郎とともに樺太(サハリン)を探検した間宮林蔵は翌文化六年(1809)七月二日単身樺太からシベリアへ渡って沿海州に入り、黒竜江(アムール川)をさかのぼりデレンに達しました。
この15ヵ月間に、およぶ探検で、樺太が島であることが明らかとなりました。
林蔵は後に間宮海峡と命名される海峡を奥州人にさきがけて発見したことにより、地理学者、探検家として世界的に有名となりました。
お墓の前の看板には以下の説明が書いてありました。
間宮林蔵墓 間宮林蔵は、安永九年(1780、一説に、安永四年)、常陸国(茨城県)筑波郡上平柳村に生まれ、天保十五(1844)年に深川垥町の家で没しました。
名は倫宋といい、伊能忠敬に測量を学び、寛政十二(1400)年に幕府の蝦夷地御用雇となり、蝦夷(北海道)をはじめとする北地探検と測量に従事しよした。
文化五( 1808)年、幕命により松田伝十郎とともに樺太(サハリン)を探検した林蔵は翌年七月二日単身樺太からシベリアへ渡って沿海州に入り、黑り竜江(アムール川)をさかのほりデレンに達しました。
この十五ヵ月間に、およぶ探検で、樺太が島であることが明らかとなりました。
後に間宮海峡と命名される海峡を欧州人にさきがけて発見したことにより、地理学者探検家として世界的に有名となりました。
平成二年二月一日江東区教育委員会。
樺太択捉島を探検した間宮林蔵宗倫公の御廟所。
大正時代に当時の東京府から史跡指定を受け保護されている。
江戸における被葬地だが菩提寺の本立院から徒歩5分程離れた一角に存在する。
元々本立院は別の隅田川沿いの永代橋近くに有ったが、周辺の寺院ひっくるめて江戸幕府の政策で現在地に移転させられたので墓地と寺院の場所が離れていたりするのは、江戸特有の事情だったりする。
名前 |
間宮林蔵墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
サハリン測量の間宮林蔵の墓が近所にありました。