新橋の清瀧神社側たもとにあります。
嘗ての江戸城への年貢は「徳川幕府支配下の漁師街(他の職業の人達も沢山おります)には江戸城への江戸前の鮮魚や塩(米は土壌の良い地域より腐る程にある)」だったと拝察致します。
また、明治に浦安市は旧濱野医院や町役場が明治中期に洋風で有ったのか?東京市でも数少ない時代でした。
建築家は誰だったのか?興味深い限りです。
因みに千葉方面の洋館擬きは一つあり如何にも田舎風でした。
もっと垢抜けた浦安の歴史と文化を掘り下げ、視野を広く観る、画一的な見方を止めて個々の検証が大切です。
折角、東京都に僅か5分で行ける位置の関係上、30km以上の千葉県では誰も行かず東京都との縄張り意識を捨てて「浦安は5分の葛西と」広域的協働関係の垢抜けした地方分権が肝要です。
何度も継続する緊急事態等措置で市民(区民も含め)は怒り心頭で疲弊しており、「怒り発散やストレス解消の場が3割利用者の公共施設でしたが、全て10月末迄も利用が出来無くした役所の目線、移動に5分の葛西地域は感染率が多くても区民目線で利用可能です」何処に違いがあるのでしょうか。
コロナウイルス拡大の為に毎日の会議する時間が有る事は余裕が有ると取れ、昨年より市民には役所の評判が悪く質も悪く画一的に市民の声を切り捨てる上席や職員が増え「職制制度として市民の監査が今後は必要」とご提案を致します。
市民参加や市民目線には色々なアイディアの閃きがあるのです。
この旧役所の写真等々を拝見して役所の原点を語りかけられた思いでしたね。
多少の資金を要する事ですが、外国人等々の人達に対して「表示盤やレリーフ」では無く画一角に施設を施して見せる事を止め、感じ触れる場所が文化財を後世に観光資源として活かしたい事です(生産性ある内容とIT化促進です。
個人情報も職員等は平気で濫用する光景はハッカー等々に対する改善点です)。
行き違いの切はご容赦下さいませ。
本所亀沢町6代末孫。
東葛飾郡浦安町役場跡はこの説明板と浦安町道路元標が残されている。
元浦安村の役場があった所に設置した記念碑🌿🌿当時浦安内では珍しいモダンな和洋折衷造りとして地域の方々から好かれていたのですが人口増加と行政業務の増加でまわしきれなくなって市街地に移転となりその役場も老朽化と村の移り変わりで取り壊しになってしまい、今は記念碑と軽い木々が生えている散歩路があるだけです😞その当時の面影を残す銅板写真の役所の風景が拝見できるのは嬉しくて必見です☺️☺️
秋には紅葉が綺麗です。
とてもよく整備されており、小さいながらも趣のある庭園の如き佇まいです。
往時の漁師町として栄えた町の雰囲気を今に伝える史跡です。
緑が綺麗でとても立派に整備されています。
浦安村時代の明治28(1895)年から改築期間を除き、昭和49年に現在の市役所庁舎ができるまで長く役場庁舎として歴史を刻んだ場所で、新橋の清瀧神社側たもとにあります。
この地は、江戸時代には幕府に収める年貢米を貯蔵する蔵があり、明治時代の初め、蔵を改造して小学校としました。
この小学校は、明治22(1889)年4月浦安村の発足とともに、浦安尋常小学校の分校になりましたが、明治27(1894)年12月に猫実に浦安尋常小学校が建設され、分校が不要になったため、翌28年4月、村役場をここに移転しました。
なお、それまでの村役場は猫実の花蔵院隣の民家を借り受けたものでした。
その後、庁舎の老朽化が激しいため、明治40(1907)年10月に改築することになり、一時堀江3丁目の民家に役場を移しましたが、明治44(1911)年11月に新庁舎がしゅんこうし、再びこの地で執務するようになりました。
新庁舎は、瓦葺き平屋建て、和洋折衷作りの当時としては、モダンな建物で「浦安にすぎたるもの」と言われ、県下に其の偉容を誇ったといいます。
また、役場に接続して漁業組合事務所が開設され、以来、ここは浦安の行政、経済の中心地となりました。
その後、長らくこの庁舎が使われ、戦後は事務の増加にともない次々と拡張や分室の建設を行いましたが、人口の増加や事業の増大に対応しきれず、昭和49年に現在の庁舎に移転しました。
浦安市。
名前 |
旧浦安町役場跡碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.9 |
旧浦安町の記念碑です。