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大同3年(808)、富士山本宮浅間大社から勧請したのに始まるとされています。
治承4年(1180)に源頼朝が御幣物を寄進して武運長久を祈願したのを始め、千葉常胤以来、代々千葉氏の信仰が篤かったようです。
桓武平氏の一族、千葉氏第3代当主の千葉常胤は千葉氏を豪族から御家人の地位まで登らしめた千葉氏中興の祖といわれ、千葉県・千葉市をひらいた人物として評価されています。
千葉常胤が領主となる前、父の平常重は所領の「相馬郡布施郷(茨城県取手市、守谷市、千葉県我孫子市、柏市、流山市)」を伊勢神宮に下総相馬御厨として寄進していましたが、下総守・藤原親通や源義朝に召し取られていました。
常重の跡を継いだ常胤は久安2年(1146)に返却を実現し、改めてその支配地域を伊勢神宮に寄進しました。
しかし、永暦2年(1161)に常陸国の佐竹義宗が藤原親通と組み、再度横領されました。
以後、常胤は義宗と激しく争うことになります。
この頃、平治の乱(1160)で敗れた源義朝の大叔父にあたる源義隆の生後間もない子が配流されてきたため、常胤は流人としてこれを監督しつつも、源氏への旧恩から、この子を密かに源氏の子として育てました。
これが後の源頼隆である。
治承4年(1180)、伊豆国で挙兵した源頼朝は石橋山の戦いに敗れた後に安房国へ逃れました。
頼朝は直ちに常胤に加勢を求める使者として安達盛長を送りました。
常胤は子息と共に丁重に迎え入れて、盛長の言伝を聞きましたが何の反応も示しませんでした。
早急の返事を求められたところ、「自分の心中は勿論その積りだ。
ただ、頼朝殿が源氏中絶の後を興されたことを考えると、感涙が眼を遮り、言葉も出ないのだ」と言って、盛長に相模国鎌倉を根拠にすることを勧めたとされています。
常胤は一族300騎を率いて下総国府に赴き頼朝に参陣したとしています。
源氏の子として育ててきた頼隆を伴って参陣したとされ、頼朝から源氏軍への参陣への労いの言葉を受けるとともに、源氏の孤児を育ててきたことを深謝され、「司馬を以て父となす」と述べられたといわれています。
常胤が頼朝から信頼をされたのは常胤の居住する場所が比較的開発が早く進み、御厨等を通して、都の文化を早く受け入れていたために動静を把握することの速さが要因と考えられています。
源氏軍の与力として活躍し、富士川の戦い後、上洛を焦る頼朝を宥めたと言われています。
また、佐竹氏討伐を進言して相馬御厨を奪還しました。
元暦元年(1184)には、源範頼軍に属して一ノ谷の戦いに参加、文治5年(1190)の奥州藤原氏討伐に従軍して東海道方面の大将に任じられて活躍し、奥州各地に所領を得ました。
建仁元年(1201)3月24日に死去、享年84。
死去の地がどこか、記録には残されていません。
国道に面した東側の駐車場から一番近いお社です。
八坂神社ですとちょっと先にある天王社とカブりますね(^^)あ、でもこちらにお祀りされてるのは素戔嗚尊だけですね。
(いわゆる祇園信仰ですと、素戔嗚尊と牛頭天王に対する神仏習合の信仰ですもんね。
)
稲毛浅間神社内にあります。
小さい神社ですが鳥居など綺麗です。
僕には神様を評価できません。
とても良い神社です!
とても厳かな雰囲気です。
広々としていてとても空気が良い感じがします。
稲毛浅間神社の中にある神社。
子供の神社で7月15日にお参りしてうちわを買って帰るのが習慣でした。
稲毛浅間神社の神門の右側に鎮座しています。
浅間神社に参拝する時には欠かさず八坂神社にも!
金色の鳥居が格好いいです。
稲毛浅間神社境内の小さなお社。
稲毛浅間神社境内の小さなお社。
名前 |
稲毛浅間神社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
043-245-7777 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.1 |
きれいに整備されている暑さ防止にお守りを売っているところに霧が吹いているご朱印はスッキリした直書き。