まさか徳川将軍家の剣術指南役を務めた剣豪の墓所に出...
小野治郎右衛門忠明の墓 / / .
徳川将軍家剣術指南役の小野派一刀流小野忠明と息子二代目小野忠常の墓地です。
小野忠明は、南総里見氏の領地である神子上村(現丸山町付近)に産まれ神子上の典膳と称していました。
剣術で徳川将軍家に仕える様になり幕府から成田に領地を得て名前は出身の村名である神子上から小野に改めたそうです。
剣術で出世したので剣道家が多く訪れ整備されているのかと思っていましたが、階段は落ち葉に埋もれ見えない状態でした。
隣地にはスポーツで有名な成田高校があります。
練習する剣道部の声が静かに眠る剣豪に聴こえているかもしれません。
登りきった先に…とあり、すぐ着くかと思いきやそれなりに階段が続く。
ご年配の方はご注意下さい。
春先だったけれど、草が茂っていてあまり手入れをされないのかな。
鬱蒼としていてビビリな私は昼間なのにそわそわしてしまいました。
されど独特な空気が流れていて不思議な経験でした。
将軍指南役の墓かぁ、良いですねぇ。
塚になっているんですね。
将軍指南役とは!
小野 忠明(おの ただあき、永禄12年(1569年)(永禄8年(1565年)とも)- 寛永5年11月7日(1628年12月2日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、剣豪、旗本。
徳川将軍家指南役。
前名は『寛政呈譜』では神子上 典膳(みこがみ てんぜん、『寛永系図』では御子神)で、後に母方の小野姓を名乗った。
剣豪伊藤一刀斎が上総を訪れたおりに試合を申し込むが敗れて弟子入りする。
その翌年再び上総を訪れた一刀斎より誘いを受けて,里見家を出奔して諸国修行の旅に随行する。
徳川家では徳川秀忠付となって剣術を指南した。
このとき姓を神子上から改め、母方の旧姓である小野とした。
またのちに秀忠が二代将軍に就任したことで、一刀流は柳生新陰流と並ぶ将軍家指南役として大いに栄えた。
寛永5年(1628年)11月7日、60歳で死去。
下総国埴生郡寺臺村、永興寺に葬られた。
山の中にひっそりとあります。
昔は、此処も寺領だったんですね。
すばらしいです!素晴らしい!私はこの歴史が好きです。
(原文)Great! Wonderful! I like this history.
お墓から木が少し邪魔ですが、成田山公園を見下ろすことができます。
階段が2箇所あり学校側から行く方には看板が付いておりますが、公園側の方から行く階段には看板がありません。
うっかり見過ごしそうです。
考えすぎかもしれませんが人の侵入を拒む城跡のような立地でした。
まさか徳川将軍家の剣術指南役を務めた剣豪の墓所に出会えるとは思いませんでした。
剣豪ってロマンでしょう。
神子上典膳の方が通りがいい。
息子の忠常の墓と並んでいる。
治郎右衛門となっているが、これは文化財指定がそうなっていたので仕方ない。
県のHPでも史跡の一覧表では直っていなかった。
改称は最近なのかな。
また、そういう文献もあるとは思うが次郎右衛門の方が一般的でしょう。
一刀流の開祖は伊東一刀斎だけど小野派というと間違えではない。
こっちも伊藤と表記される場合もあるしね。
隣に一刀流中西派の高野茂義先生の頌徳碑が建立されていた。
一刀流を名乗る石碑が増えるかも。
永興寺(ようこうじ)の境内ではあるが、直接には行けない。
成田高校脇を書道美術館方面に曲がり、坂を登ったところに階段がある。
他に2ヶ所階段があるが一番分かりやすい。
右の塔の横に忠常の名があるので、大きい方が忠明か。
南無妙法蓮華経とあるが、永興寺は曹洞宗。
寺台が所領だったので地頭の墓は檀家と一緒にできなかったのか。
因みに、生誕地公園が南房総市にある。
名前 |
小野治郎右衛門忠明の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
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成田山新勝寺の東端の境界石の東にあるので、新勝寺寺領ではなかったようです。
今は永興寺が管理されているとのこと。
道からの入り口はかなり荒れていますが、供養塔のある周りは草もなく綺麗にされています。
今でも、年に一度は、小野派一刀流の流れをくむ道場の方々によって清掃・整備されているとのこと。
良いお話です。
供養塔は、妙法蓮華経と刻まれた五輪塔で、小野氏は法華経を信奉されていたそうです。