美濃の本家が滅亡し土岐原から土岐に戻しています。
此処は、私の地元の戦国武将と言うよりは、室町時代の国人領主の土岐原(土岐)氏の居城跡です。
土岐原氏は関東管領上杉氏の代官として室町初期に信太荘江戸崎に来て以来五代にわたり南常陸の雄として名を馳せ関東管領没落後は、小田原北条氏傘下の国人領主として、近隣の小田氏や佐竹氏等と戦いながら戦国を生き抜き最後は、豊臣秀吉の小田原征伐のおり秀吉方の佐竹氏等によって江戸崎城攻めによって滅びました。
今は何も残って無いですけど、まだ本丸跡付近の微かな土塁等に当時の面影が偲ばれます。
規模が大きい。
土岐原氏の本城です。
山内上杉氏の家臣だった土岐原氏が築城したものです。
土岐原氏は後に北条氏陣営に入り、豊臣秀吉の小田原征伐とともに落城しました。
小野川の支流である沼里川にUの字で囲われた場所に位置しています。
稲荷神社がある辺りが本丸だったようです。
稲荷神社は土岐原氏が守護神として祀っていたそう。
本丸周辺には一部だけ土塁が確認できます。
ここから北側に行くと江戸崎小学校グラウンドがあります。
ここはかつて桃山があったそうで江戸崎城の重要拠点だったと思われます。
さらに北側に鹿島神社があります。
ここは2の丸にあたるようです。
北側に6m位の土塁が確認できます。
遺構としては最大の土塁です。
鹿島神社の北側には羅漢山があり、五百の羅漢様が祀られています。
羅漢山から南に土橋が延びているのですが、ここだけ戦国時代です(^^;)))往時の姿が残っており迫力があります。
見所が沢山ある城郭ですね(^-^)/
南の本丸周辺はわりとよく残っているものの二の丸があったとされる桃山は後世の学校建設で山ごとざっくり削られています。
ほか鹿島神社のあたりにも虎口や土塁遺構が残ります。
美濃国守護であった土岐頼芸は、斉藤道三に国を追われて後、流浪の末にこの地に至ったという。
なんだかよくわかりませんが、綺麗に掃除管理されていました。
また、最近建てられた石ころには、茨城県立江戸崎高等学校発祥地と成っておりました。
別に何かがあるわけではない。
美濃土岐氏庶流の大名・江戸崎土岐氏の居城だった。
北部の鹿島神社含め、遺構がそれなりに残っている。
名前 |
江戸崎城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
北南に細長い自然の地形を利用した土岐氏の城、美濃の本家が滅亡し土岐原から土岐に戻しています。