自然が素晴らしく遊歩道が巡らされていてまるで竹林や...
愛犬U^ェ^Uと一緒にいつものお散歩😄🎶いつ歩いてもすれ違う人がほとんど無し😅だからいいんです人がいないからお店も何もありません💦※近くに農家さんのお店があって期間限定の焼き芋🍠がその時期になると食べられます😋静かで竹やぶや林の中を木のチップをひいたたたくさんの細い道があって何通りも違う道を歩けます😄🎶見晴らしの良い場所では新幹線🚄とニューシャトル🚃を眺められます今の時期はサクラ🌸綺麗でした※仮設トイレ🚻あります。
前々から興味があったが、近くなのでいつでも行けると思って、中々行かなかった伊奈氏屋敷跡を、本日次いでがあり、やっと訪ねることができた。
史跡の周辺は道が狭く、車を停めるスペースは無いと思っていたが、現地の散策路マップを見たら臨時駐車場が記載されていたので、そちらに駐車した。
(Googleマップに後日地点登録した)行く前は大した見どころはないし、駐車スペースもないので、ざっと見て帰るつもりであったが、臨時駐車場に停められたので、一応散策路を巡ってみることにした。
すると驚き!堀や土塁が確り残っていた。
それもかなりの規模である。
堀を散策していると土塁に圧倒された。
屋敷跡全体は周辺の湿地帯より若干盛り上がっている程度なので、こんな低湿地帯の中にこんな立派な土塁があるとは感動した。
特に蔵屋敷跡西方の土塁、二の丸跡北方の土塁は見ものであるので、ぜひ一度訪れては如何か。
さて、伊奈氏であるが、出自は信濃国伊那群である。
伊奈忠基[ただもと]の代に三河国に移り松平広忠に仕え、三河国幡豆[はず]郡小島[おじま]城を居城とした。
その後、忠基の二男忠家[ただいえ]は永禄六(1563)年三河一向一揆に加わり家康の下を出奔してしまったが、天正三(1575)年長篠の戦いで功を上げ帰参を許された。
忠家の嫡男忠次[ただつぐ]は家康の嫡男信康の配下となり仕えたが、信康が武田との内通の罪で自刃させられると再び出奔し、縁者を頼って和泉国堺に逼塞した。
天正十(1582)年本能寺の変が勃発すると、堺を遊覧中の家康の下へ傭兵を引き連れて現れ、家康の伊賀越えに貢献し再び帰参を許され、父忠家の旧領小島を与えられた。
天正十八(1590)年秀吉の北条征伐により後北条氏が滅び、家康がその旧領関八州(居城は江戸)に直ぐ様移封されると、忠次も武蔵国足立郡小室と鴻巣において1万3千石(1万石とも)を与えられ、ここ小室に陣屋を構えた。
代官頭となった忠次は関八州の幕府直轄地を治め、検地や新田開発、河川改修などに活躍した。
慶長十五(1610)年忠次は61歳で亡くなり遺領と関東代官職は嫡男の忠政が継いだ。
忠政は大坂の陣に従軍し冬の陣では外堀を埋め立てる普請奉行を務め、夏の陣では首級を30挙げるなど活躍した。
しかし、元和四(1618)年34歳で亡くなり、所領と家督は幼少(8歳)の嫡男忠勝が、関東代官職は27歳の弟(忠次二男)忠治[ただはる] がそれぞれ継いだ。
関東代官職を継いだ忠治は、以前から幕府に勘定方として出仕しており、武蔵国赤山(現在の川口市赤山)に既に7千石を拝領していたので、ここに赤山陣屋を構え、兄忠政の配下だった代官の多くは忠治の家臣となった。
忠治は父、兄の事業を引き継いで関八州の治水工事、新田開発、河川改修(特に利根川東遷事業は功績大)等に活躍した。
因みに、忠次は埼玉県北足立郡伊奈町の町名の由来であるし、忠次の二男忠治も茨城県筑波郡伊奈町(現在は市町村合併でつくばみらい市に変わってしまったが)の町名の由来であった。
親子2代にわたって町名の由来になったというのは、地域(関東の治水)に対してどんなに大きな貢献をしたかを物語っていると思う。
願わくは、北足立郡伊奈町の地名はいつまでも存続し、歴史を伝え残して欲しい。
《2023.12.14訪問》
上尾駅前からジョギング🏃して到着。
杭に伊奈氏屋敷跡とあるが他は何もない。
ないのがいいと感じた。
荒れているわけではないけど静かに佇んでいる。
「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」が自然と思い浮かんだ、芭蕉だ。
このあと東大宮方面へ走った。
伊奈氏屋敷「跡」であり、それらしき遺構は残っているものの古墳や城などのような歴史的構造物を期待せずに行けば散策として楽しめるだろう。
なぜ、伊奈氏の自宅が跡地となっても史跡として整備されているか。
詳細は現地案内板で確認できる。
簡単で言えば、伊奈氏一族は戦国時代から江戸時代にかけてこの地を治めた有力者であり、水路(川)や陸路(街道)の整備にも尽力した重要人物だから、となる。
なお、近くの頭殿現神社の訪問もおすすめする。
伊奈氏屋敷と関わりの深い神社であることに加え、高架橋を走る新幹線が美しく見える場所である。
訪問日 2021/10/20
自然が素晴らしく遊歩道が巡らされていてまるで竹林や山道を歩いているかのような景色を味わえます。
近年、散策路が整備された。
土塁や空堀、虎口などの遺構が、住宅外のあちこちに散在している。
解説板がありますが、建造物などの遺構はありませんでした。
しかし長閑な雰囲気の良いところでした。
自然溢れる佇まいで往時を偲ばせています。
とにかく、美景に癒やされます!伊奈氏の居館跡なので散策におすすめです。
一周1500メートル程あります。
まさにビオトープの場所です。
上尾市のお宝を持続可能な自然を守りたいです。
見どころいっぱい時間帯をちょうせいゆっくり休憩を。
心霊スポットだったり、整備されて散策しやすくなった。
表門から裏門へと向かう。
途中、頭殿権現社が広い敷地にポツンとある。
見晴らし良く新幹線の高架線が目の前。
あとはただ、散策路となっている高い土塁の掘を落ち葉踏み踏み歩く。
そうした場所には案内板があり、パンフレットもある。
陣屋としていつまで存続していたのかわからないが、明治になって払い下げ民有地となり今に続く。
ウラシマソウが咲くらしい。
自然が残されているようだ。
埼玉県史跡です。
戦国時代末期に徳川家康が関東に入府した際、伊奈忠次がそれに従い北方の固めとしてこの地に屋敷(と言う名の砦)を築きました。
伊奈氏は江戸時代200年にわたる歴代の関東郡代として、利根川東遷事業や、荒川の締め切りを始め、関東各地で河川の改修や干拓・水利に携わるなど、まさに「治水のエキスパート」として、当時の世界最大の都市である江戸の基礎を築きました。
スーパーテクノクラートの家系であり、今で言う国土交通省事務次官を代々勤めた、といったところでしょうか。
忠次はその初代であり、「伊奈流」と呼ばれる治水方法を確立しました。
言うまでもありませんが、伊奈町の由来はここから来ています。
敷地は東西350m、南北750mに渡り、土塁や掘の遺構が見られます。
また、敷地を横切るジグザグの道は、当時の同じ道筋を残しています。
尚、最近になり徐々に整備が進んでいるようで、設置が「平成31年2月」と、ある意味レアな日付の案内看板がありました。
ニューシャトル丸山駅を降りてすぐに広がっており、さしずめどこぞのデベロッパーが謳う「駅直結の邸宅」です。
ちなみに丸山駅脇の草原からは障子掘が発掘されたそうですが、現在は埋め戻されています。
山中城のように是非復活させてください!
これだけ立派な遺構があるのに中途半端な整備状態で何かもったいない。
もう少し頑張れば伊奈町の立派な観光地になるのにな、と。
11月の爽やかな秋晴れの日に訪問したが、やはり草はかなり伸びてるので、汚れても良いスニーカー、長袖長ズボンでしっかり対策をしていくことをお勧めする。
一部、入り込むのに暗くて怖い道もあり、勇気がなくて先に進めなかった。
車で行った場合駐車する場所に困るかもしれない。
行くなら電車が良いだろう。
伊奈町郷土資料館も併せて行くと、さらに理解が深まる。
所有者が公開してくれているおかげで、ちょっとしたハイキング気分になれるのはありがたい。
ただ、掘り跡に悪水が貯まり、尋常じゃない蚊で大変です。
浄化にしたり、トンボ(ヤゴ)を飼育するなどして対策しないとただの環境汚染になります。
開けてはいるけど草ぼうぼうの場所もあって見学するような状況ではありませんでした。
これから整備がすすむのかな?(2020/08)
チャンバラ大会のイベントでいきました。
イベント時はいいですが普段はあまりいきたくないです。
可もなく不可もなく。
県指定史跡江戸時代初期にテクノクラートとして活躍した伊奈氏の陣屋跡。
江戸時代から大きな変化もなく古の姿を想像できる場所です。
散歩道が増えていい感じです。
最近草が生えてきて獣道になりつつあります。
皆で通って踏み固めましょう。
ほとんどが民家の敷地内でずかずか入り込むわけにはいかないのと、入れる場所も見通しが悪いところがあるので、一人で見学するのはおすすめできません。
散策路はウッドチップを敷き詰めていて、ふかふかの歩き心地でした。
ニューシャトルの丸山駅から散策路が整備されていますが、肝心の陣屋跡はどうも民家の中のようです。
頭殿権現社との間の堀には折れ歪みもみられました。
二の郭も含めてこれから整備が進むようです。
名前 |
伊奈氏屋敷跡 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
048-721-2111 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.7 |
ここは素晴らしい場所です。
待ち時間もなくすぐに入場できます。
ただし、夜は何も見えなくなり怖すぎる場所。
先日取手からきた人はここで行方不明になった伊那屋敷の入り口には古びたパッソが無断駐車している。
フルスモークだから中は見えない不気味。
怖いし暗いからもう行かない。