夜明け前、1番太鼓が祭りの始まりをつげます。
小さい狛犬がいい。
関東一の神輿みたいな。
7月28日・熊谷市指定無形民俗文化財・大杉神社祭礼行事資料に依りますと、夜明け前、1番太鼓が祭りの始まりをつげます。
昭和25年頃まで、宮元の男たちはこの1番太鼓で起き出し、闇の中・利根川に入り、身を浄めたそうです。
よしかわ氏の談話に依りますと15歳の時に親父様に連れられ、🔰初めて身を浄める体験をしたそうです。
令和元年の祭祀にも、激流の中で浄めたそうです。
葛和田伝統をひきつぐ頼もしい後継者の一人ですね。
7月初旬、八丁締めの幣が揺れる度に関東一のあばれ神輿に繰り広げられる「おかもみ」「かわもみ」のワッセー・ワッセー と激しく揉みあう姿が日々うかぶようになります。
大野伊奈利神社・神域の「おかもみ」は必見 💮令和元年・赤岩渡船場の「かわもみ」は残念ながら増水のために中止になりましたが、次回は〔葛和田若衆〕の「かわもみ」堪能して下さい。
宮入りも最後の力を振り絞り・各地区の力自慢の若衆~神輿担ぎ比べも💮💮
名前 |
神明宮 |
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ジャンル |
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電話番号 |
048-588-0936 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.0 |
葛和田神明社(くずわだしんめいしゃ)主祭神 天照大御神合祀神 大物主櫛甕玉命 菅原道真公 大山祇命 大物主命 市杵島姫命 倉稲魂命 素盞嗚命 大市姫命由緒葛和田神明社は、伊勢神宮の御師が当地に逗留した際、天照大御神を奉祭した社であると伝わっています。
創設は不詳ですが、社領十五石一斗の御朱印を、慶安二年(1649)に下賜されたと言われていますので、その年所の久しさを知ることができます。
鎮座地は、口碑によると、初め字伊勢ノ宮にありましたが、利根川の乱流により境内が浸食されたことから高台の字川成の地に移り、更に川成も低湿地で水害に見舞われることから、高台の字町裏に鎮座する氷川神社に移転したといわれています。
「風土記稿」には「神明社 氷川神社を合殿とす」と載せられていることから、既に化政期(1804~1830)には現在の地に遷座していました。
現在この二つの旧社地は、共に利根川の川中となっています。
明治四十年(1907)五月以降、葛和田全域神社大杉神社外八柱を合祀しました。
昭和四十二年から昭和四十四年(1967~1969)七月まで、境内の整備を行いました。
神明社は祈年祭(四月中旬)と例大祭(十月中旬)を斎行しています。
葛和田は、昔、江戸との利根川舟運が隆昌し、与助という船頭が水難の際に大杉明神に助けられた伝説が残っています。
七月下旬には、利根川に神輿を入れて男衆が揉み合いを行う勇壮な祭りの大杉祭典「関東一のあばれ神輿」が行われ、大勢の観客で賑わいます。
近くの利根川河畔には「妻沼グライダー滑空場」があり、また「葛和田の渡し」では、群馬県と往来する渡し船が今も運航しており風情豊かな田園風景が残っています。
(「埼玉の神社」及び「改築記念碑」より)「大杉神輿」江戸時代、葛和田・大野・俵瀬村は利根川の川岸場として賑いの地でした。
大杉神社は利根川に注ぐ道竿堀の南に在りましたが、大正三年(1914)堤防工事に伴い現在の地、神明神社に合祀されたものです。
その昔、荒宿の与助という腕の良い船頭がおり、江戸まで三十余里の船路を運行していました。
ある日、与助は、百石船に米・野菜・薪等を積んで、江戸に向かって出発しました。
二日目に、霞ヶ浦の西浦に差し掛かった頃、一天俄にかき曇り、凄まじい暴風となりました。
腕に自信のある与助でしたが、操る船は木の葉の様に揺れ、今にも波に飲まれそうになりました。
思わず口をついて出た言葉は「南無大杉大明神」。
日頃厚く信仰している大杉様におすがりしようと一心に祈念するうち、荒れ狂う波の上に、白髪の大杉様が白雲に乗って静かに現れ、木の葉の様に揺れ動く与助の船を片手で掴み、あれよあれよと言う間に波静かな海へ運んでくれました。
荷物を無事に届け、村に帰った与助の口からこの事を聞いた村人達は、いまさらの様に大杉様の霊験あらたかなることを感じ、そのお礼と以後船路の安全を祈念して当初江戸末期享和一年(1801)に神輿を造営しました。
明治六年(1873)現在の大神輿に作り替えられ、年に一度の祭礼を毎年七月二十六日と決め、その大神輿を担ぎ、村内を一日がかりで練りまわり、揉みに揉んでさらには利根川に入れ、いつしか暴れ神輿といわれ関東地方でも有名なお祭りのひとつに数えられる様になりました。
平成五年(1993)一月二十五日付、大杉神社祭礼行事として町の文化財に指定され、現在の祭礼は時代の変化にともない七月下旬の土・日曜日に変更し、盛大に行われています。
(「大杉神輿修繕記念碑」より)「力石」境内には、昔、力自慢の村人達が境内に集まり、力比べをして身体を鍛えたと言われ、この石が持ち上げられないと、江戸末期より受け継がれている関東一のあばれ神輿は担がせてもらえなかった、とも言い伝えられている、120~200kgの力石が、三個残っています。
当時はこの石が持ち上げられないと、一人前として認められないため、若者達は毎夜密かに練習にはげんだと言い伝えられています。
(「境内案内板」より)