御堂が解放されていて、見学自由でした。
現在はお寺というより展示館に見えます。
でも真田ファンに於いては必見の場所と思います。
ドラマで見る犬伏の別れで三人座っていたが現実三人座るには窮屈に感じました。
関ヶ原の戦いに際して真田氏は、豊臣方に弟の信繁(後の幸村)、徳川方に兄の信之とを分かち、どちらが勝っても一方を残すことにしたわけです。
その命運を分けた取り決めをしたのがこの薬師堂であり、真田に大いに縁があるため、六文銭をあしらった幟旗が立てられています。
古墳への登り口はお堂の左奥です。
駐車場はこのすぐ左にありますが、近隣の食べ物屋さんの名札が付いている箇所が多くて困りました。
真田の六文銭が目に入り、なぜ真田がここに?との思いで、立ち寄りました。
立看板をみて納得。
歴史と、血を絶やさない為の究極の選択を拝見し、平和な世の中に感謝の念を抱きました。
立ち寄れてよかったです。
歴史好きなら押さえておきたい真田親子にまつわる「犬伏の別れ」が行われた場所とされています。
駐車場もあります。
あと、賽銭箱のとなりの机には「寄せ書きノート」がありますので、気が向いたら何か書き残してみるのも良いかも?
慶長5年(1600年)、天下分け目の関が原の合戦を前に、真田父子3人(昌幸、信幸、幸村)が、東軍と西軍に分かれて戦うことを決断した密議の場所だと伝承されているのが、この薬師堂です。
薬師堂の脇を流れていた川にあった橋は、真田父子の別れ橋として語り継がれています。
なお、この犬伏の別れは大河ドラマなどで取り上げられたこともあり、 特に真田氏の居城のあった長野県上田市で犬伏は非常に知名度のある地名。
また、毎年5月には薬師様のお祭りも行われます。
あるのは知っていたけど開いているのは見た事無かったのですが、通ったらたまたま開いていたので寄らせて頂きました。
然程大きな建物ではありませんが、古墳の上に建てられていて、また真田親子が会議をしたと言われる歴史を変えるような重要な場所だったようです。
説明の看板を見て、親子の決断の難しさ、辛さ、悲しさが伝わってきました。
また、近くに別れ橋とされた場所がありますが そちらは看板のみの保存です。
また開いている時があれば、もっと調べてから伺いたいです。
高崎市倉賀野から「旧日光例弊使街道」を歩いて2日目太田を出て佐野城址公園で昼食後犬伏に差し掛かり一見!?と思う六文銭。
NHK大河「真田丸」でもあった関ヶ原の戦前に真田親子が話し合って敵味方と決する「犬伏の判れ」の舞台とされる。
三叉路のデルタに位置する目立ちそうな場所だが色々と去来する妄想のひとときに満足感。
2020/09/06Geocachingというゲームで訪問しました。
なるほどここですか、思いがけず来ることができました。
九州に台風が来るという影響で急に雨が降り出したので長居は出来ませんでしたが、お堂の中も開いていてみることができました。
真田父子犬伏の別れの地。
周辺にここを案内するようなものはほぼ無く信号待ちで横をみたら真田の六文銭を旗を見かけて寄ってみたって感じだった。
駐車場も見当たらず。
真田氏は大河ドラマにもなり好きな人も多いのでしっかり整備をしてほしいです。
先日長野県を訪れた際の上田城のパンフレットに「犬伏の別れ」と記載されていました。
テレビを見て知っている人は大丈夫だと思うのですが、どうか【栃木県佐野市】と追記をお願いします。
関ヶ原の直前。
真田父子が徳川に付くか豊臣に付くかを話し合い、兄信幸は徳川に、父昌幸と弟信繁(幸村)は豊臣に。
どちらが勝っても真田は残ると苦渋の決断をした犬伏の別れの舞台。
胸が熱くなります❗
とてもこじんまりとして、あっさりした神社です。
割合に交通量があり、カーブの所にあるので、事故に注意が必要です。
駐車場は神社そぱにありますが、お寿司屋と共用?なのでしょうか?お寿司用の名札があります。
期待して行くと外れるかもしれませんが、人も少なく舗装のない当時を想像し、真田父子の決意に思いをはせるながら訪れるのもいいですね。
真田父子別れの地 犬伏新町薬師堂関ヶ原の合戦の前に真田昌幸 信幸(伸之) 信繁(幸村)の父子が真田家の存続のため敵味方に別れる話し合いをした場所です。
地名から「犬伏の別れの地」とも言われています。
本堂は無料で見学する事ができました。
御札100円です。
真田丸ファンにはたまらない場所です。
【令和元年GW初訪問】真田親子の犬伏の別れの地👍多くの歴史ファンが訪れるようで、裏に無料の駐車スペースや簡易トイレがありました。
小生はバイクツーリングの途中での立ち寄りゆえ、目の前に停めてしまいました。
薬師如来を祀る御社というより「犬伏の別れの地」の方が有名である。
詳細は歴史小説の傑作で名高い池波正太郎の「真田太平記」に譲るが、関ヶ原合戦の前哨戦である上杉討伐に参陣する真田昌幸がこの地犬伏まで到着した際、石田三成の密書が届き、既に徳川家康の陣(小山)に到着していた長男信幸を呼んで、今後の行く末を協議した場所とされる。
歴史検証はいろいろあるが、昌幸の妻が三成の妻の従姉妹、次男の信繁(幸村)の妻は西軍副将格の大谷吉継が息女、一方信幸の妻は家康の重臣本多忠勝が息女の血族を背景として、徳川軍の上田攻めの際、上杉の人質だった信繁(幸村)を上田に戻したことや、その際上杉の援軍を得て滅亡を逃れたことが、昌幸を西軍参陣に決意させた動機であったように考察する。
「真田太平記」では、この協議の大分前に信幸が徳川の忍びが上杉や西軍計画を察知していて「夢にも西軍に就きませぬように」と昌幸に進言する描写がある。
信幸は徳川の大きさを知り、徳川軍に参陣する。
手前は秀吉や昌幸に好意的である。
これは手前の先祖が川越城の合戦で、討ち死にしており、その仇を取ってくれたからかもしれない。
私情が絡むと考察に影響を及ぼすので上記の考察は史実と乖離があるかもしれない。
余談になるが、親が日本放送協会の受信料を払っているころ、「真田太平記」と「炎(ほむら)立つ」は大河ドラマと別枠でドラマ化されていた。
そのなかで、関ヶ原の合戦で、脇坂安治が裏切っ際の大谷吉継の描写や、平塚為広の描写を割愛したところ、大阪夏の陣で信繁(幸村)が「又兵衛殿(後藤基次)は何故死を急ぐ」という台詞を入れたところは、後で小説を読み返したときに、かなりの違和感を覚えたことを今でも記憶している。
駐車場は、アバウト感ですwわからずに一旦通り過ぎました。
お堂の中は、「入れます」の貼り紙があったが開いてませんでした。
休日だけかも(^_^;)
御堂が解放されていて、見学自由でした。
中には紙とかで作った真田家の甲冑が飾ってありました。
被って写真撮っていいとのことです。
他には100年前の例幣使街道の写真、仏像、奉納された絵など。
絵はご利益で目が治った場面。
仏像は不揃いで、いつの頃だか一部盗難にあったとのこと。
真田丸からお客さんが増えたので、毎日御堂を開けていると、夕方に閉めに来た方に教えてもらいました。
名前 |
新町薬師堂 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0283-27-3011 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
4.1 |
真田親子の別れた場所です。
これでは観光客は呼べませんよ。