久下塚飯玉神社の美しさ。
飯玉神社の特徴
境内の美しさに心奪われ、穏やかな時間を過ごせる場所です。
鳥居の位置が神社により異なる点がとても不思議に感じます。
飯玉神社の由緒は古墳時代まで遡るという神秘的な歴史があります。
久下塚飯玉神社(くげづかいいだまじんじゃ)御祭神 倉稲魂命境内社 稲荷社 八坂社 大黒天由緒鎮座地の久下塚は、武蔵七党児玉党の久下塚氏の名字の地と考えられていて、元来は独立した村でしたが、中世の末期に北堀に繰り入れられるようになったと考えられます。
飯玉神社は、当地一帯、久下塚が村として独立していた頃は、鎮守社として祀られていたともいわれています。
地名の「久下」は古代の役所である「郡家」が転じたものであるとの説もありますが、現在これを裏付ける遺跡は発見されていません。
久下塚飯玉神社は、久下塚の産土として祀られてきた神社で、「児玉郡誌」によれば、創立の年代は不詳ですが、児玉党の氏族である公家塚庄二郎弘定が崇敬した最も古い社であるといわれています。
公家塚庄二郎弘定は、「児玉党系図(諸家系図纂)」によれば、一ノ谷の合戦で源氏方に属して戦功があったと伝えられる家長の弟で、その息子の親弘は公下塚本太郎と称しています。
境内には存していれば樹齢720年程の欅の御神木があったことから、古社であることが窺えます。
「風土記稿」北堀村の項に「飯玉明神社 日光院の持」と記され、江戸時代には、地内にあった当山派修験の日光院が別当でした。
日光院は、一説には京都から小幡中納言某という公卿が、この地に流されて来た際に開いた寺であるといわれ、県内第四位の大きさの円墳「公家塚古墳」の麓にありましたが、神仏分離によって廃寺となり、公家塚氏墓所となりました。
農林水産省浦和食糧事務所本庄支所の傍らに建つ不動尊はその名残です。
久下塚飯玉神社は、昭和十三年(1938)に村社に列格しています。
(「境内案内板」及び「埼玉の神社」参照)「公卿塚古墳」北堀久下塚飯玉神社が鎮座する北堀「久下塚」付近には古墳が多くあり、現在はそのほとんどは消滅していますが、公卿塚古墳は昭和年代に二回調査した結果、西側に突出部が存在する全長70mの大型古墳と判明しています。
円筒埴輪や形象埴輪も採集されていて、円筒埴輪は格子目叩き整形の野焼きで朝鮮南部に見られる技法です。
これら遺物から、五世紀初から中期の築造と思われ、嘗てこの古墳に埋葬された人物は、かなり高貴な人ではないかと考えられて、久下(公卿)という字をあたえたともいわれています。
神社により、鳥居の位置が違うのが不思議です。
旧村社。
御朱印は若泉稲荷神社で頂けます。
¥500
飯玉神社の起源については古墳時代末期説がありますが、何分時代が古すぎて神話の領域であり、考古学的な証明は難しいそうです。
ひとつ言えることは飯玉神社が立っているあたりは、古墳時代の遺跡が多く発見されていることらしいです。
ここ飯玉神社の鎮座地は、中世の末期に北堀に繰り入れられた久下塚という地域で、武蔵七党児玉党の久下塚氏の名字の地であり、久下塚の産土として祀られてきた神社であるらしい。
境内には現存していれば樹齢720年位の、目通り周囲12.7mほどの欅の御神木があったことから、相当の古社である事がうかがえるらしい。
更に、創建については時代をさかのぼる手がかりとして、この辺りに公家塚古墳という古墳時代のなごりがあり、やはり古墳がらみで創建は不詳です。
他の人の写真にある鳥居前の参道は道が削られて境内からの土砂流出に困っていた氏子の話を聞いた宮司がほかに使う予定の石材を提供し、当時の総代、自治会長、年番の勤労奉仕と白石敷設により最近完成したものです。
公家塚家は満州にわたって三十年前に絶えました。
平成三十年にはその墓地も平らになる予定です。
旧村社格。
児玉党久下塚氏由縁。
名前 |
飯玉神社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0495-21-5265 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.4 |
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ある春の日に偶然通りかかり、境内の美しさに心奪われ、しばらくここで過ごしました。
手入れをされている方、この出会い、巡り合わせに感謝です。