延喜式内神名帳には、今城青坂稲実池上神社と記されて...
今城青坂稲実池上神社 / / / .
延喜式神名帳の武蔵国賀美郡の項に記載のある式内社の論社の一社。
賀美郡の項には、当社のほか、今城青坂稲實荒御魂神社、今城青八坂稲實神社、長幡部神社の計四座の記載があり、長幡部神社を除き、それぞれ論社が複数ある。
今城青坂稲實池上神社も神川町関口に同名の神社があり、いずれかもはっきりしない。
当社の鎮座地の北側を烏川が流れていて、その西側には神流川と烏川が合流する場所がある。
この合流地点には「毘沙吐」という大字があるが、川の氾濫によって全村移転の結果、全国的にも珍しい人口ゼロの大字となっている。
この付近は洪水がとても多い場所だったことから、神社の元地はわからなくなっている。
上里町の資料によると、江戸時代中期以降、昭和34年まで被害のあった水害は70回以上ある場所で、洪水の都度、村は移転したり分村したりして、それにあわせて氏神様も移転や分祀が行われるので、元の鎮座地はわからなくなっているのだ。
延喜式内 今城青坂稲實池上神社(いまきあおさかいなのみのいけがみのじんじゃ)主祭神 気吹戸主命合祀神 豊受姫命境内社 八坂神社 宮西神社(醫祖大神) 加茂神社(八雷神) 総社神社 北野神社 瘡守神社由緒池上神社は、和銅年間(708~715)の創立で、延喜式内社武蔵国四十四座の一つで、延喜式内神名帳には、今城青坂稲実池上神社と記されています。
当神社は烏川を背にして祀られており、「延喜式」神名帳に見える賀美郡四社の内の「今城青坂稲実池上神社」の比定社の一つとされています。
社名の「いまき」は今城すなわち新来の意で、渡来系氏族が当地に高度な技術を導入し、「稲魂」を祀ったものと考えられます。
社伝によれば、和銅四年(711)に勧請され、忍保庄の総社として崇敬され、古くは善台寺において別当を兼務し神事を司っていました。
元弘年中(1331~1334)に新田義貞が金窪に大瑘城を築いた際、城の艮(東北)にあって荒廃していた当社を再興し、城の鬼門除けとして戦勝を祈願しました。
大永年中(1521~1528)には斉藤盛光の崇敬が篤く、神殿の修復が行われたと言われています。
天正十年(1582)、織田信長の家臣である厩橋(群馬県前橋市)城主の滝川一益と小田原城主北条氏直との神流川合戦の際に社殿を焼失しました。
天正十九年(1591)に川窪与左衛門信俊が社殿を改築し、神田を寄進しました。
元禄七年(1694)の大洪水に社殿が流出しましたが、本殿だけはかろうじて水中から引き揚げ、地盤を高く築き、修繕を加えて再興しました。
しかし元禄十一年(1698)に信俊の孫武田越前守信貞が丹後国に転領となってから衰退の一途をたどりました。
その後、元文三年(1738)に地頭から鳥居の再建と供米の奉納があり、更に嘉永年間(1848~1854)には地頭から社殿の修繕と神田の寄進があり、徐々に社運を盛り返しました。
明治五年(1872)に旧称に復して村社となり、現在の社殿は明治十二年(1879)に改築され、同三十二年(1899)に県社に昇格しました。
なお、当神社には明治初期に始まった「忍保の神楽」と呼ばれる神楽の一座があります。
(境内案内板より)
賀美郡に四座ある延喜式内社の一座「今城青八坂稲実池上神社」の比定社に相当します。
旧懸社。
御祭神:伊吹戸主命(いぶきどぬし)、豊受姫命(とようけひめ)。
創建:年代不詳(奈良時代相当)。
上里町大字忍保小字稲実にある今城青坂稲実池上神社です。
社名の「今城(いまき)」は、すなわち新来の意で、渡来系氏族が当地に高度な技術を導入し、「稲魂」を祀ったものだそうです。
資料によると、社伝によれば、和銅四年(711年)に勧請され、忍保庄の総社として崇敬されたとあります。
烏川を背にして祀られていて、南北朝時代には新田義貞が金窪に大瑘城を築いた際、城の艮(東北)にあって荒廃していた当社を再興し、城の鬼門除けとしたとあります。
しかしながら、安土桃山時代の1582年に神流川合戦の兵火により、社殿を焼失し、この時、義貞再興の社殿も焼失したとあります。
更に再興後も江戸時代前期1694年の大洪水で社殿が流出、本殿だけはかろうじて水中から引き揚げ、地盤を高く築き、修繕を加えて再興したとあります。
烏川の鎮守の森として、流転する歴史の流れを感じます。
補足資料によると、高度な稲作技術を持った渡来系氏族が、烏川沿岸の忍野に稲作の神「豊受姫命」を守護神として和銅4年(711)に創祀した。
その後、渡来系氏族の衰えにより荒廃し、「今城青八坂稲実池上神社」の社号は失われ「稲荷社」と呼ばれていたが、元弘年間(1331-1334)に新田義貞が金窪城の鬼門除けとして再建した。
この時に鬼門除けのため、祓戸四神の一神「伊吹戸主命」が勧請されたと思われる。
明治5年(1872)には、社名を「稲荷社」から現在の「今城青八坂稲実池上神社」へ復称した。
とあります。
昔、朝ドラに話題ね神社です。
NHK「ゲゲゲの女房」の撮影の使われました。
延喜式内社。
旧村(後に県)社格。
境内が広い。
埼玉県上里町忍保〔今城青坂稲実池上神社〕に芭蕉句碑が建っている。
はつさくらおりしもけふはよき日なり。
名前 |
今城青坂稲実池上神社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0495-21-2066 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.6 |
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長い神社名ですが一般的には「池上神社」と呼ばれているようです。
上里町には延喜式内社と呼ばれる古社が四柱残っているようですが、池上神社はそのうちの一柱「今城青坂稲実池上神社」であるとの事です。
自分は四柱の比定地の神社を廻りましたがこの池上神社が一番境内も広く手入れが行き届いていると感じました。
すぐ脇には烏川と利根川の合流地点があり、昔から氾濫に悩まされてきた立地だったと思われます。
逆に肥沃な土を産み出し社名に見られる稲美と言う地でもあったのかもしれません。
境内には氾濫で流された近くの神社を合祀したと言う摂社もありました。