低地帯であったこの地域の治水や農業用水として利用す...
低地帯であったこの地域の治水や農業用水として利用する為に備前堀を作ることに尽力した。
幕府の関東郡代伊奈備前守忠次。
道明橋の上にある。
伊奈忠次は天文19年(1550)三河国小島(現、愛知県西尾市)に生まれ、武蔵国小室(現、埼玉県北足立伊奈町)に陣屋を構え1610年に没して、埼玉県鴻巣市の勝願寺に埋葬された。
[1550~1610]江戸初期の幕臣。
通称、熊蔵。
徳川家康の近習として、検地・治水・新田開発などに敏腕を振るう。
初代関東郡代。
ポケスポット。
江戸に居た一族伊奈忠治や伊奈忠克親子は、江戸の水道工事に一生をかけた。
江戸時代に利根川の改修工事を指揮した責任者の方。
備前堀は徳川光圀の父・頼房の代に築かれましたが、藩主に就いたとき頼房は若干6歳であり、実際に工事を計画・指揮したのは伊奈備前守忠次だそうです。
彼は駿府時代からの家康の家臣で、江戸に移ってからは幕府の関東郡代として活躍した有能な人物だったのだそうです(頼房は家康の末っ子)。
この時代は測量技術の発達を背景に、大規模な灌漑や土木事業が次々と実施されたそうですが、中でも伊奈忠次は関東で"利根川の東遷"という大事業を成功させ、他にも各地で河川の改修や堤防・溜池づくり、新田開発等を数多く行ったことで知られています。
これにより、低湿地だった利根川・荒川下流域や武蔵野は耕地化され、農業生産力は激増したといいます。
関東各地に多く残る「備前堀」「備前堤」「備前渠」…等は伊奈忠次が手がけたものが多いそうで。
また彼は、養蚕や製塩等の殖産興業も教え広め、関東地方の農産業全体の発展に大きく貢献しました。
つまり江戸の繁栄の土台を周りから作ったと言えます。
水戸の備前堀も大変な苦労のすえ完成し、お陰でこの地区の田畑は大いに潤ったのだとか。
忠次は当時の農民達にとっては神のような存在だったのでしょう。
(一方、備前検知と呼ばれる厳格な検地制度を行ったことでは農民たちから恨みを買ったのだそうです。
)お堀は1610年に完成してから現在に至るまで農業用水として使われており、その功績を考えると道明橋の上の忠次の銅像は小さすぎる気すらしてしまいます。
因みに忠次の子孫は幕末まで代々関東郡代を務めたらしく、以前歴史秘話ヒストリアで伊奈半左衛門の災害復興について紹介していました。
名前 |
伊奈忠次像 |
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ジャンル |
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電話番号 |
029-224-3315 |
住所 |
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評価 |
3.9 |
治水により水戸藩繁栄に貢献した徳川幕府の代官頭。