枝垂れ梅が満開と聞いて見に行きました。
親鸞聖人御旧跡真宗大谷派阿彌陀寺 / / / .
親鸞聖人の関東時代における高弟のうちの一人、定信房の「阿弥陀寺」を訪問いたしました。
(春には桜が綺麗なお寺です)調べてみますと、この阿弥陀寺には真宗の歴史を知る上で重要な親鸞聖人のお弟子様がわかる史料があるそうです。
(他のお寺でも岡崎市「妙源寺」のものも有名かと思います)その他にも色々な史料を有しているお寺のようです。
また、このお寺は常陸北部における念仏道場の大山の草庵が発祥で、聖人が京都へ戻られる際には定信房に託されました。
その後定信房は妻帯されなかったため、後を継ぐ方を親鸞聖人の孫 善明上人とされ、その後は血脈相続により現在まで続いているとのことです。
訪問させて頂きたい旨をお伝えしまして、訪問当日は水戸駅から水郡線に乗り額田駅(無人駅)で降車し、駅からは歩いて20〜30分ぐらいでお寺には到着します。
境内を見学させて頂きましたが非常に広いですし、とても綺麗にされています。
まだ冬なので有名な桜は咲いていませんが、もうしばらくすると綺麗に咲き誇るとのことです。
境内を見学後、お忙しい中住職様が本堂を案内して下さいました。
ご本尊様を参拝させて頂きました後、住職様は私の亡き母にも心を掛けて下さりお話もして頂けました。
(特に御同朋の精神についてのお話が印象に残る)非常にお忙しい中、お話下さり有難うございました。
またいつか桜の綺麗な時期に訪問したいとも思いました。
阿弥陀寺は浄土真宗二十四輩本蹟十四番のお寺です。
親鸞聖人は建保四年(1214年)那珂西郡の大山の地に念仏の道場を開き、同年11月8日に、三尊六高祖の尊厳を安置、師法然上人の追悼法要を勤められました。
その時の三尊六高祖の真筆が現存しています。
親鸞聖人は大山には約10年滞し、その間に二十四輩以下453人の弟子が生まれています。
やがて聖人は大山の道場を二十四輩十四番の弟子定信坊に付属され京都に帰られました。
親鸞聖人の玄孫善明上人が大山の三代目相承者となり、1391年、額田小野崎従通の招きにより、額田堀之内片庭の地に移転し額田城の守護寺になり永楽銭20貫と酒出を寄進された。
佐竹氏の秋田移封に伴い一時ついていくが旧地に再興、1864年天狗党の兵火で焼失、一時下野に逃れるが1865年現在地にもどり、それ以来、直接血脈により現在二十七代まで法灯を伝承している。
県指定阿弥陀如来木像 所在地:那珂市額田南郷375 指定年月日:昭和46年10月28日 種類:彫刻 寄木造り 漆箔 1軀 像高95.4cm 木像は阿弥陀寺の本尊仏。
通肩の法衣をまとい、来仰印を結び放射光背を配し、踏割蓮華座上に立つ像。
桧木材で頭部前後を矧ぎ、玉眼・首柄を設ける。
体部も前後を矧ぎ、両肩外側部・両袖口・両手首・両足先を矧ぎ寄せる。
大粒の螺髪・低い肉髪の表現など鎌倉風を示している。
像容衣文の彫・口などやや定型化している。
光圀公お手植えといわれる320年のしだれ桜が有名で日乗上人日記に光圀の訪問の記述がある。
春先にはその姿に観光客が集まり、高さのあるしだれ桜は観光パワースポットとなっている。
3月下旬が垂れ桜は見頃です。
大山禅坊第二代の定信房は、清和天皇第五皇子といわれる京都三井寺の沙門尭範阿闍梨(ぎょうはんあじゃり)という天台宗の学匠で、天台仏教弘通のため関東に下って大山に来て、建保二年(一二一四)、佐竹氏の祈願所として建立された天台宗願泉寺にいた。
開基と親鸞聖人とのかかわりは、寺伝によれば、祈願所の観世音前庭に植えられていた梅の木のそばに、十六歳の聖徳大子が現れ、定信房に「稲田へ参詣し、親鸞聖人の弟子となりなさい。
法名は定信と授ける」と霊告したのである。
定信は早速稲田におもむき、念仏をきいて弟子となったという。
枝下桜は那珂市の推し。
枝下桜のライトアップも見事。
今年はやらないらしい。
とは言え、お寺なので飲食店や観光地のように評価するものでもない。
名前 |
親鸞聖人御旧跡真宗大谷派阿彌陀寺 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
029-298-7505 |
住所 |
|
評価 |
4.0 |
先日は副住職様に大変お世話になりました、この季節には名物の枝垂桜も情緒があり鐘突堂との雰囲気がなんとも言えません。