佐竹氏の家臣、石神小野崎氏が築城。
高低差がハッキリしていて迫力ある城跡です。
空堀の迫力と日立方面を望む景色は最高でした。
維持管理されてる方大変だと思います。
お疲れ様です。
桜の季節に来たことがあったのですが、今回は新緑の季節。
それでもここは別世界に来た感じがします。
中世のお城跡地で、城主は佐竹氏家臣の石神小野崎氏。
慶長 7 年(1602)佐竹義 宣の秋田移封に従ってこの地を去り,石神城は廃城になった。
何度か訪れている場所ですが、今日は下の駐車場から、昔蛇行して城のすぐ下を流れていただろう久慈川の流れや、いまは繁ってしまった木々を通して、彼方まで見渡せたであろう景色を眺めてきました。
もう一組、城址を熱心に見ている方々がいました。
行ったのは晩秋だが、本丸のあったと思われる広場には桜の木がかなりあったので、春の花見には絶好かと。
駐車場もあり、広場にベンチもあるので静かに森林浴も可能。
佐竹氏の家臣、石神小野崎氏が築城。
近隣の額田小野崎氏と領地を巡り争い落城した。
その後、佐竹氏の下で戦功を上げ帰城を許される。
佐竹義宜の秋田移封に伴い廃城となる。
室町時代に築かれ佐竹氏に仕えた小野崎氏の居城です。
同族の額田城主小野崎氏と区別するために石神氏とも称されました。
両家は仲が悪く所領を争い石神小野崎氏は敗れましたが、佐竹氏の周旋もあって所領を回復。
佐竹義宣が出羽へ移封されると小野崎通広もそれに従い石神城は廃城となりました。
一見すると城塁のように見える巨大な土の壁は郭を囲む空堀の外側に構築された土塁であり北側には水堀の名残りと取れる池と湿地が残されています。
最高所には遠見城と呼ばれる郭があり重厚な土塁に囲まれています。
二の郭と三の郭も土橋を伴う虎口が綺麗に残っているのが印象的でした。
建築年代は不詳ですが,延徳元(1489)年,佐竹氏と伊達・葦名・結城の連合軍との合戦の際,主君の身代わりとなって討ち死にした小野崎通綱の功により,一子・通老が石上城を含む領地を受領し石上氏を称しました。
天文15(1536)年,石神通長のとき,所領の境界をめぐってしばしば争っていた同族の沼田城主・沼田(小野崎)就通の攻撃により石神城は落城,石神通長は退却したが,その後,佐竹氏への戦功により石上城へ帰城が認められた。
慶長7(1602)年,佐竹氏の秋田移封に従って石上氏もこの地を去り,石神城は廃城となった。
駐車場にバイクを駐め,急な階段を上ってII郭へ。
広いですが時期的に草茫々。
なにやら花壇のようなものがあります。
さらに囲いで覆われた一角があり,何か貴重な城の遺構とかあるのかな~と近づいたら,放射線で汚染された土壌の置き場でした。
ギャーまだ残ってたんだ。
ここで,中世から現代まで強制的に意識を戻される。
深い堀など感心しながら見つつ歩いていると,小さなアマガエルがいたるところでぴょんぴょん飛び跳ねています。
踏まないように気をつけながら,駐車場まで戻りました。
名前 |
石神城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
https://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/shiseki/12-61/12-61.html |
評価 |
3.8 |
家臣の城なので、殿様の城より大きくできない分コンパクトにまとまっていて、土塁、空堀などよく保存されている。
駐車場は2箇所あるが、下の方が大きくトイレもある。
下の駐車場から土塁を登る通路があり、この先はどうなっているのだろうと期待させる。
土塁、空堀は結構深く、土塁上から弓を放つには有利な事が実感できる。
上から二の曲輪、三の曲輪、一の曲輪となっており、二と三は平らな広場となっている。
一は小さく出丸のよう。
公園として整備されているが、堀が深く土塁の上を歩くしかなく、散歩には不向きかもしれない。