その三曲輪を主体に公園として整備している。
本丸、二の丸、空掘、北曲輪、と城跡中心地が良く残ってます。
水堀は三日月堀にほんの少しだけ痕跡を残す形になってます。
また三日月堀は埋め立て時に三角形に残り、それが三日月形に見える為に名付けられたものであり、城郭の三日月堀の造りとは関係ないものなので気を付けて見学してください。
駐車場は西ノ丸と水堀の跡になり、ます。
本丸を巡る土塁上を歩く事が出来ます。
少し前の信長の野望をやると、関東を制覇した北条と東北を制覇した南部か伊達がこの大田原城でぶつかり、とんでもない数の大渋滞を起こす事で有名。
今は平和な公園ですが、土塁がよく残っていて面白いですね。
二の丸、本丸、北曲輪が直線に連なるシンプルな縄張(その他曲輪もある)で、その三曲輪を主体に公園として整備している。
三日月堀切なども残っているが、何と言っても本丸を囲む土塁の高さは美しい。
他の曲輪跡を辿ることもできるが、防御の技巧を偲ぶのではなく、純粋に本丸を守ることだけを考えた城として想いを馳せるのがこの城の慈しみ方のような気がする。
幕末にいっ時戦場となった城だが、本丸を取り囲む桜を愛でながら、平和な世の中のひと時を過ごすのがこの城には相応しい。
2023/3/26(日)今年は桜まつり🌸が開催されています。
あいにくの天気ですが、桜は🌸咲き始めています‼️ 早朝なので、人は私しかいませんでした❗️小雨のなかですが、桜🌸と鳥の鳴き声が良い空気感です‼️これからが見頃となります。
現在は、それ程ひろくないので、地元のお年寄りの散歩コースになっているようです。
昔の縄張りを見るとかなり広く、周りに水堀が張り巡らしてあったようです。
天守跡から見渡しても、町並みに変わっていて、無料駐車場の縁に三日月堀の跡があるだけで、大きな堀跡は多分あの辺りかな、相当大きい城だったなあっと想像するくらいしかないです。
大田原氏の城で現在は龍城公園になっています。
一見中世城郭ですが明治まで存続しており、ひろ~い本丸を高い土塁が取り巻いています。
比較的よく残されており二の丸や北曲輪、三日月堀なども見れます。
城跡の説明看板や所々にある石碑など劣化しています。
(石碑に掘られた文章が読めない物もある)壊れかけた遊歩道の柵もロープが使われており、これらを直して欲しいと訪れる度に思います。
大田原城跡です。
現在は城跡であり建物の類は1つもない城跡公園になっています。
石碑や案内板も破損している所が多く管理は今一つ。
どちらかといえば桜や紅葉の景観公園としての立ち位置です。
桜の時期は天守閣跡は桜のトンネルになり、夜にはライトアップもされます。
ただし知名度が低いためか、熱心に広報活動してないせいか、人は少ないです。
その分、穴場とも言えます。
城址公園として整備され、堀切や土塁が残されている。
戦国時代以前から、江戸時代も終わるまで、大田原市が支配した。
龍城公園として保存されています。
建造物は何ひとつありませんが、土塁や堀の跡がわかりやすく残っています。
公園内の案内看板も石碑で設置されていました。
桜の名所とのことで、駐車場も比較的広く訪問しやすいです。
諸般事情で離れるタイミングを逃し続け3時間以上居座る羽目になってしまったものの…月並みながら「何もしないで居心地良く過ごす場所」としての最適解を備えた場所。
町並みを見下ろすだけで何だか気持ちが軽くなったようなプラセボ効果。
城主の大田原氏は、もともと那須氏の部下でしたが、小田原征伐や関ヶ原の功績によって近世大名に成り上がったもののようです。
特に関ヶ原の際の対上杉(会津)戦では、黒羽城の大関氏と共に最重要防衛ラインを担っています。
当時は城主の住居と政庁がありましたが、現在は市民の憩いの場として利用されています。
土塁の上には散歩道が整備されていて、犬の散歩をしている人などがいました。
当時は築地塀が張り巡らされていたところですが、現在は桜の木で囲われています。
春は、さぞ綺麗なことでしょう。
この城のおもしろいところは、蛇尾川の河川敷と一体になっているところです。
今は埋め立てられてしまっていますが、川から城内に水堀が引き入れられていたので、水運も利用していたのではないでしょうか。
大田原藩は一万二千石ということで小さめの藩ですが、城はかなり立派でした。
奥州街道をすぐ西に抱えた交通の要衝で、人の往来も多く、蛇尾川の水運も利用でき、財政的には潤っていたのかもしれません。
すぐ東隣にある黒羽藩は一万八千石と大田原藩より大きいのですが、両藩のライバル関係がどのような感じだったのか、お互いに気にしていなかったのか。
少し興味があるところです。
なかなか廻るのに道が険しいが良い運動になります。
城跡ファンとしては面白くない。
けど公園としてはナイス。
本丸跡って綺麗にしちゃうと丸で球場スタジアムのような感じになっちゃうんですな。
都会派の城址といった処か。
城跡が自然の形で残っている。
大田原城跡城の規模は中々です。
大手道を上がるときから高揚感に包まれました。
那須七騎の一人、大田原氏の居城。
大田原資清の時に大田原城を築城し水口館から移った。
関ケ原の戦いでは会津の上杉氏の抑えとして城を改修した。
戊辰戦争では旧幕府軍と新政府側についた大田原藩との間で戦闘になり、大田原藩の防衛線を次々と突破した旧幕府軍に城下まで攻め込まれ、落城寸前まで追いつめられるが戦力不足に陥った旧幕府軍が撤退した為、落城は免れた。
郭、空堀、土塁が良好な状態で残る。
小藩の小城ではあるが戦歴は中々のものであると思う。
平山城でコンパクトにまとまっており、見学し易いです。
本丸周辺の土塁や、二の丸と本丸の間の堀など、結構な造りで見応えがあります。
駐車場が分かりづらいのが難でしょうか? 私は結局蛇尾川公園の駐車場に置いて、歩きました。
21. 大田原城跡(おおたわらじょうあと)・大田原城は大田原資清によって築かれた城です。
1545年(天文14年)の築城以来、1871年(明治4年)の廃藩置県にいたるまでの326年間、大田原氏の居城でした。
・本丸・二の丸・三の丸に区画され、この外、北と西の曲輪(くるわ)・馬場・作事場等がある複郭式の平山城(ひらやまじろ)でした。
・徳川家康は特にこの地を重視し、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い前、上杉景勝(かげかつ)の挙兵の際にはその備えとして急ぎ城の修理を命じ、さらに3代将軍家光は、常時玄米千石を城中に貯蔵させ奥州への備えとしました。
文政8年(1825)には火災によって焼失しましたが、同9年新たに修造されました。
・戊辰戦争では、大田原藩は新政府軍につき、大田原城は会津攻めの拠点となりました。
そのため、慶応4年(1868)会津軍の攻撃をうけましたが、火薬庫の爆発により落城はまぬがれました。
1873年、廃城令により廃城。
・城址は1961年(昭和36年)12月8日に大田原市の史跡に指定され、現在は龍城公園(城山公園とも)として利用されている。
土塁には桜やツツジが植えられ、花見の名所として大田原市民に親しまれている。
~大田原資清について~那須家は、応永年間に上那須家と下那須家に分裂して戦国期を迎えた。
応永年間:(1394年から1428年までの期間を指す。
室町幕府、将軍は足利義満、足利義持、足利義量。
) 上那須四代の那須資親は実子がなく、白河結城家から養子・資永を迎えたが、晩年になって実子・資久が生まれ、家老の大田原資清に資久を当主にするよう遺言して世を去った。
上那須家の家老・大田原資清は、遺言を守って他の家老たちと協力し、永正13年(1516)、資永(養子)を福原城に追い詰め、ついに上那須の家臣団が福原城の本丸に討ち入った時、資永(養子)の家臣で田川時法が、「資永様は自害された!」と言って攻城兵に白衣の包みを渡し、城に火を付けて消えた。
包みの中には資永の首と、田中城にいるはずの、まだ六歳の資久(実子)の首が入っていた。
こうして、上那須家は唐突に断絶した。
「追い詰められた資永(養子)の命により、家臣の田川が田中城に忍び込んで、資久様(実子)を誘拐した。
「この上は、下那須の那須資房様に従い、指示を仰ぐべし。
」という大田原資清の釈明に、誰もが疑問を持った。
大田原資清が、統一那須家の筆頭家老となるに及んで上那須党の不満は爆発し、大関宗増と福原資安が、主君・那須資房(下那須家当主)に讒言して、その傍観を勝ち取り、永正15年(1518)、両名は大田原資清を攻めた。
大田原資清は命と引き換えに実兄・麟道のいる長興寺において出家し、越前永平寺へと旅立った。
24年後の天文11年(1542)、突如那須郡に乱入した兵団を率いる将を見て、大関宗増と福原資安は驚いた。
「きっ、貴様、大田原資清!どうやってこれだけの兵を・・・?!」「やぁご両所、お久しゅう。
実は永平寺に参拝に来られた太守の朝倉孝景様と意気投合してのぅ。
身の上を話したところ、こうしてご助勢下さったわけよ。
」不意を突いて大関・福原に勝ち、那須家の家老に返り咲いた大田原資清は、大関宗増の嫡子・増次を殺すと、大田原資清は、自分の長男・高増を大関家の養子にねじ込み、福原資安を高野山に追放して、次男の資孝を福原家の養子に押し込んだ。
さらに、三男の綱清に自分の跡を継がせ、次女を那須資房の子・政資の側室に送り込んだ。
この大田原資清の息子たち三人、いわゆる大田原三兄弟が、那須の実権を握り、幕末まで続く家を輩出することになる。
ちなみにこの大関高増が、大田原城の東にある黒羽城を築城しています。
栃木県大田原市に行った時、大田原城跡を見に行きました。
小高い高台にあって、公園のようになっていました。
高台のところには、ベンチがいくつかあり、そこの場所から山々や大田原市内を眺めることができました。
晴天だと、夜はきれいな星空を見る事ができるのでは?公園内には、大田原市のシルバー人材センターの方々が掃除担当している水洗トイレもありました。
トイレットペーパーの予備も、しっかり備わっていました。
他には、戦争で犠牲になられた方々の慰霊碑もありました。
慰霊碑の地下に、犠牲になられた方々の名簿が納められているようです。
紅葉の季節では初めての撮影です(^^)v桜の季節は人気が高いみたいです。
コンサートとかもできそう。
二の丸〜から堀〜北曲輪をざっと歩くと、なかなかの堅城さを感じられます。
国鉄時代、大田原に駅が出来てれば、かなり栄えたと思う。
城下町なら尚更。
でも昔は昔の考えがあったのかな。
春は桜が綺麗な城跡公園ですが駐車場が小さく、なかなか車を止められません。
名前 |
大田原城跡 |
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ジャンル |
|
電話番号 |
0287-98-3768 |
住所 |
|
営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
3.4 |
2024/6/22大田原氏300年の歴史を感じられる素晴らしい場所。
戦国時代から明治まで12,000石の大名としてあり続けたことがそもそもすごい。
大手から入ると巨大な内枡形らしき場所があり、そこから左右に分かれる。
右手にはニ郭があり、この曲輪は空堀で周囲からきりはなされ、出丸か馬出のように見える。
更に奥には稲荷曲輪がある。
主郭との間には堀があり今は土橋がついているが、かつては木橋だったかも。
主郭はとんでもなく高い土塁に囲まれており、圧倒される。
また芝生が敷かれとても気持ちいい。